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中国思想史

〜諸子百家・古代中国の思想〜

文責:楽毅(当時高1)

 

 題名を読んで、「このレポートは飛ばそう」と思ったあなた!ちょっと待って欲しい。「温故知新」「青は藍より取りて、藍より青し」「蛇足」「杞憂」…。この中でいくつの言葉を知っているだろうか。
 また、あなたはお葬式で、どこを拝んでいるだろうか。おそらく使者の柩や写真、白木の位牌を拝んでいるだろう。祖先崇拝といわれるものだ。その他にも年功序列、親孝行…普段の我々の生活でよくみられる考え方である。
 実は、これらのほとんどは古代中国、春秋戦国時代に起源をもつ思想の影響を色濃く受けている。そこでここでは、私たちの生活に深く根ざしている、「古代中国の思想」とその起源について、紹介していきたいと思う。決して固い内容だと思わないで欲しい。読んでいただければ分かるだろうが、−古代中国の思想−これは僕たちにとって非常に身近な話題なのだ。
 ここでは、その古代中国の春秋戦国時代にスポットを当てて、その思想史を追った。いわゆる「諸子百家(しょしひゃっか)」と呼ばれる思想家達についてもふれている。どうか肩の力を抜いて読んで頂きたい。私たちが普段普通に考えていることや、普通に持っている価値観。その起源は、この時代にあるのだから。

 

◆周代の封建制◆

 今回の研究の舞台が古代中国の春秋戦国時代であることは述べた。この時代がどのような時代であったかを知るには、まず僕の書いた別のレポート内の記述を読んで頂きたい(→p.105)。それを読んで頂ければ分かることと思うが、春秋戦国時代は分裂の時代のまっただ中で、諸侯は戦乱に明け暮れる日々を過ごしていた。ここでは、なぜこのような群雄割拠の時代になったか、ということについてもう少し詳しく触れたいと思う。
 紀元前11世紀頃から始まったとされる周王朝(王朝:日本で言う朝廷のようなもの)の支配の制度は「封建制」であった。日本で封建制が登場するのが鎌倉時代であることを考えると、中国では同じ事がなんと2000年以上前に行われていたことになる。さて、封建制とは、ご存じの方も多いとは思うが『領主が家臣に封土を与え、その代わりに軍役などの義務を課する主従関係(広辞苑)』で、周代の中国では領主が天子(てんし)、家臣が諸侯(しょこう)にあたる。
 しかし、周代の中国の封建制には、もう一つ重要な要素があった。

 それは「血」という思想である。

 周代の封建制では、中央に王室があり、その一族が各地に封(ほう)ぜられ(領土を与えられ)、諸侯(しょこう)となり、王室の守りにあたったのだ。つまり、王室と諸侯は「血」で結ばれていることになる。もっとも、血縁関係を持たない諸侯もいたのだが、王室は婚姻関係を結ぶことによって「同族」の意識を持たせようとした。当時はこの「血」という思想が斬新で画期的な考え方であったようである。
 さて、この周代の封建制も、時代の流れとともにその弱点があらわになる。いくつかの世代を経て、「血のつながり」という意識が薄れ始めたのだ。同じ一族であるという認識を諸侯が失えば、周王朝にとって致命的なダメージとなる。実際、この後の周王朝の権威は失墜し、戦国時代に入ると諸侯に「王」を自称されるまでに至る。「王」は周王朝のみが許されていた称号なのである。
 血による同族意識が薄れれば実力主義が台頭してくるのは当然といえよう。

 

◆戦争と思想界、そして諸子百家◆

 この時代に焦点を当てた理由、それは春秋戦国時代が中国史上でもまれに見る、思想界が活発であった時期だったからだ。それはなぜだろうか。
 これについても先程と同様、僕の書いた別のレポート内に多少の記述がある(→p.105)。それを読んで頂いたとして話を進めたいと思う。
 戦争が多発する分裂期だからこそ思想界が活発になったことはお分かりになったことだろう。しかし、国に優遇された知識人達はどこから来たのか。森三樹三郎氏はその著書「中国思想史」のなかで、これを「インテリ浪人」としている。では、インテリ浪人とは何か。当時、戦乱の世の中にあって、勝利を収め領土を拡大する国があるということは、当然ながら強国に敗れる小国があるということである。これら亡国の臣は、新たな仕官先を探し、諸国を旅するのだ。これが森氏の言うところの浪人なのである。そして彼らは武勇より、自らの舌を生命線としていた弁士の方が多い。中国では日本と違って国が広い。一人の武勇よりも国を治める文人を尊重する風潮がそうさせたのであろう。彼らは政治や経済についての知識を持っている。「インテリ」浪人だ。
 戦乱を繰り広げる諸侯の間でも彼らを優遇する動きが出てくる。そのもとへ行き、国家経営を説く彼らは、いわば「政治コンサルタント」である。こうして諸侯を遊説してまわったインテリ浪人達。彼らこそが諸子百家(しょしひゃっか)となる。

 

◆「中国的」思想◆

 さて、春秋戦国時代の社会背景と諸子百家がうまれた様子は理解して頂けたであろうか。諸子百家の思想を紹介する前に、まず中国の思想全般に見られる一般的な性格を2つ、紹介したい。これらはレポートの後半を理解するには必要不可欠な基礎知識であるので、「中国の思想って何?」という方は、まずこちらを一読して頂きたい。

 

1、宗教性に乏しい
 例として、『論語』に記されている孔子と弟子の有名な問答を見て頂きたい。
弟子 鬼神(死者の霊)にはどのように仕えればよろしいだろうか
孔子 まだ生きた人間に仕えることさえできないのに、死者の霊に仕えることなどできるものか
弟子 死後の世界はどうなるのでしょうか
孔子 この人生のことさえ分からないのに、死後のことなど分かるはずはない
(未だ生を知らず。焉くんぞ死を知らん。)
 神や死後の世界について、孔子がいかに無関心であったかを伺うことができるだろう。つまり、孔子は今の人生をいかに正しく生きるかにもっとも関心を向けていたのだ。神や死後の世界、というと、そこには当然宗教的な思考を必要とする。そういった領域に踏み込まない儒教は、「教」という文字がついても、キリスト教や仏教などに代表される「宗教」という分野には属さない、というのが一般的な見解である。儒教に限らず、仏教が入ってくる前の中国思想界は、非常に宗教性において乏しかったのである。

 

2、政治的である
 多少前述したが、中国思想は政治的であり、ここが中国思想で最も興味深いところだと僕は思っている。ギリシャ文化は哲学・芸術的、インド文化は宗教的だといわれるが、中国の文化は「政治的」色彩が非常に強いのだ。それはなぜであろうか。それを軽くみていこう。
 結論から言ってしまえば、官吏が文化を独占したからである。文化は民衆全てではなく特定の身分のみが担当する場合が多い。中国の場合、文化を担当した知識階級は官吏であった。これが中国思想を政治的にした理由である。ではなぜ、知識階級=官吏なのであろうか。
 中国では官吏を登用する際、科挙(かきょ)という学科試験を行うが、そのときの基準は法律の知識の有無ではなく、儒教の知識が豊富であることや、詩を作るのがうまかったりすること。つまり、文化人になることで官吏になれるのである。さて、官吏⇒知識人は分かった。では知識人⇒官吏はどうであろう。これも成り立つのだ。
 官吏になれば、権力や名声が得られる。しかし、さらに魅力的であったものがある。「金」である。決して官吏の給料は多くないが、袖の下の収入は莫大であったらしく、「官吏を3年勤めれば子孫が3代遊んで食える」ほどだったらしい。知識人はこぞって官吏を目指すようになった。これで知識人⇔官吏という、中国独特の式が成り立つのである。

 

 さて、基礎知識が身に付いたところで、いよいよ本題、諸子百家の思想についてみていこう。諸子百家は、「百家」というように、様々な流派があった。そのわけ方にはいくつかの説があるので敢えて載せないが、「儒家」などの流派があるということは覚えておいて頂きたい。

 

孔子と儒教
孔子の思想の継承者たち@ 孟子
孔子の思想の継承者たちA 荀子
「法」の思想 韓非子
無為自然 老子・荘子

 

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 さて、時間と文面の関係で非常におおざっぱになってしまったのだが、古代中国の思想を簡単に紹介、諸子百家のうち有名な人物を数人挙げてみた。日本に多大な影響を与えている中国思想がどのようにして生まれたのか、少しでも興味を持って頂ければ、このレポートを書いた甲斐があったというものである。