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「法」の思想

韓非子

 

 前項でふれた通り、秦の始皇帝のもとに仕えた韓非子(かんぴし)は、李斯(りし)とともに、かつて荀子(じゅんし)の門に学んだことがあったといわれる。
 彼にはどもりがあり、話すのが苦手だったようだ。しかし、論文を書くことが得意で、それが秦王政(せい)(のちの始皇帝)の目にとまった。秦王は是非韓非子を登用したいといい、彼が仕えていた韓という国を攻めてまでして韓非子を手に入れた。しかし、ここで彼とともに学んだ李斯(当時既に秦王に仕えていた)が秦王になんと讒言(ざんげん)をするのである。李斯は韓非子を妬んでいたのだ。

 「韓非子は韓の国の人だ。結局は韓のために働き、秦のためにはならないであろう。殺してしまうのがよい」

 結局秦王は彼の言を取り、韓非子を牢獄に入れてしまう。後になって、思い直した秦王は彼を赦免しようとしたが、その前に、李斯は韓非子に毒薬を与えて自殺させてしまっていた。
 さて、韓非子が唱えた法治主義の思想は説明するまでもないであろう。法によって人民を拘束するというものである。荀子は礼を主張し、ある程度の拘束をしたものの、道徳は否定しなかった。儒家であれば当然である。しかし、韓非子は道徳を認めなかった。法は無情であり、機械的に運用される。ちなみに、今となっては、日本を含めた世界のほとんどの国は法治主義国家である。
 さて、このような思想が生まれるには、やはり時代の変化がある。荀子の場合と同じく、戦乱が一層激しくなり、人口が増えたことで、道徳による政治など全く通用しなくなったのだ。
 新たな政治体制が求められる中、韓非子の法家思想は強国・秦に受け入れられ(以前から法を重視していた国であった)、法治主義を徹底させ、富国強兵を成し遂げた秦は、戦乱に打ち勝ち、中国史上初めての統一国家を作るのである。
 一見成功したかのように見えた法家思想だが、その苛酷さに耐えかねたのは民衆であった。陳勝(ちんしょう)と呉広(ごこう)の率いる農民の反乱を始めとして、始皇帝崩御後は民衆の怨恨が各地で爆発し、それとともに秦はわずかな年月で崩壊する。