孔子と儒教

 

 中国思想に興味がない人でも孔子(こうし)の名前は聞いたことがあるだろう。彼は、アジアの思想にあまりにも大きい思想を与えた「儒教」の祖である。からの言行録である『論語(ろんご)』は儒教最高の教典であり「温故知新」などの数々の名言とともに、その教えは、2000年の時をこえた現在の我々にも伝わっている。
 しかし、彼に関して重要なポイントがある。それは、彼が同じく世界的に思想界へ大きな影響を与えたブッダやキリストと性格をまったく異にしている事である。彼らに共通することは、「常識」という枠をこえてそこにある「真理」を求めたこと、という。それには「大いなる存在」としての神や生死の世界などを語る必要があり、そこに「宗教性」が生まれてくる。それに対し、前項で触れた通り、孔子は宗教的なことに興味はなかった。彼はこう語る。「私は古の聖人や仁者にはとうていおよびもつかぬ者である。しかし、その言を懸命に学び、学んだことは人に教えて怠らぬ者だとは言ってもよかろう」。孔子は常識人であり、彼は新たな思想を創始しようとしたわけではない。彼は「偉大な凡人」であったのである。彼が生きた時代は周王朝の威厳が衰えた春秋時代であり、それとともに周公旦(しゅうこうたん)という人物が定めた礼に基づく封建制度が崩壊した時期であった。そんな中、孔子はその周公旦の礼を学び、当時の社会秩序を再び実現させることを理想とし、「仁」を道徳の根本に据えた徳治主義・復古主義を唱えた。古来の思想を大成させることが孔子が目指したことであるのだ。p.137で詳述した周代の封建制、つまり血による家族主義の精神を復興させることが孔子の大いなる展望であった。これで前に引用した孔子の言の意味も通じたであろう。
 さて、孔子は「凡人」であったが故に、様々な苦悩を抱き続けていた人でもある。彼は魯(ろ)という国に生まれた。魯は文化大国であったが、いわゆる斜陽国家であった。一度は魯で国政で参与するほどの地位に達したと言われる孔子であるが、内部抗争に敗れて失脚する。その後、孔子は苦難の道を歩むことになるのだ。
 彼はその弟子達と共に、遊説の旅に出る。衛・曹・宋・鄭・陳・蔡・楚…と、数々の国に赴き(次ページ図参照)、理想の政治を説くが、戦乱の世にその思想は受け入れられず、結局彼を登用する国はなかった。十二年間にわたる旅を終えた孔子は、魯に帰り、ひたすら弟子の教育に専念した。彼が生涯を全うしたのは73歳の時で※29、当時にしては大往生であった。

 

〔参考:儒教文化圏〕

日本・中国・韓国・北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)・ベトナム・タイ・マレーシア 等

 

〔参考:孔子、巡歴の順序〕

魯→衛→陳→衛→曹→宋→鄭→陳→衛→陳→蔡→楚→衛→魯