孔子の思想の継承者達A

荀子

 

 荀子(じゅんし)は孟子の晩年の頃に生まれ、秦の始皇帝の即位直前にこの世を去ったといわれる。彼は様々な思想が影響を受け合っていた戦国末期の儒者で、道家や墨家の思想も取り入れ、現実的な考え方を持った。儒家ではあるが多くの点で孔子を修正し、後述するが孟子と対立した。さらに、彼の門下生である韓非子(かんぴし)や李斯(りし)などは、法家思想を生むことになる。
 孟子の性善説と対になって有名なのが、荀子の性悪説(せいあくせつ)である。自然のままの人間は無限の欲望を持ち、放っておけば衝突を招くことになる、といったものだ。人間の自然の性は「悪」であるというのだ。これは孟子の性善説を否定しているように思え、実際私たちは学校で孟子の性悪説と荀子の性善説を対にして覚える。しかし、実際『荀子』を読んでみたが、荀子は孟子を意識的に攻撃しているわけではなく、さらにいえば、性悪説が特に強調されているわけでもないようだ。重要なのはそれをふまえた上での「礼論」だと本にもあった。
 礼論とは、人間は放っておけば悪事にはしるのであるから、これを「礼」によって拘束しようというのである。孔子は道徳による政治を強調し、徳治主義を主張したが、道徳だけで政治を行うのは非現実的だというので、「礼」をその補強に用いた。「礼」とは今とはちょっと意味が違って「社会的なしきたり」のことで、道徳と違って拘束力があるのだ。孔子や孟子も「礼」の話はしており、「徳」と「礼」の2本立てであったが、荀子は同じ儒家でも「礼」を特に強調し、重要視した。かれのこのような考え方を礼治主義という。
 このような思想の変化の背景には、時代の流れがあるようである。荀子が生きた世の中は戦国時代。孔子や孟子よりも後の時代で、より戦乱が激しくなっていた時代である。乱世では道徳に頼る、など無意味に近い。荀子は儒家という立場を取りながらも多少の強制力を持つ「礼」が必要だとしたのだ。
 彼の弟子である李斯や韓非子が法家であることは前述したが、この法家は人民を拘束するものとして「法」を主張した。「礼」は「法」に比べてしまえば拘束力はない。「法」が罰則を伴うのにくらべ、「礼」にはそういったものはない。そしてこの法治主義は孔子が最も嫌ったものであり、それに近い発想をした荀子は儒家の中でも異端とされ、傍流にすぎなかった。