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三国志の裏方

文責:伯約(当時中3)

 

◆はじめに

 

 一度はまってしまったら、なかなか抜け出せない。いつまでも興味をそそられる。そんな物の一つに「三国志」がある。この文をこれから書く私も、そんな、「三国志」に取り付かれてしまった者の1人である。
 さて(三国志を知っている)皆さんは、「三国志の登場人物」と聞いて、どのような人物を思い浮かべるだろうか?人によって思い浮かべる人物は違うだろう。
 三国時代を築き上げた中心人物、劉備(りゅうび)・曹操(そうそう)・孫権(そんけん)といった君主達だろうか?上のような名君を補佐し、建国に尽力した、諸葛亮(しょかつりょう)・司馬懿(しばい)・周瑜(しゅうゆ)といった軍師達だろうか?戦の時には勇猛果敢に先陣を切り、己の主君に常に勝利をもたらした、関羽(かんう)・張遼(ちょうりょう)・甘寧(かんねい)といった名将達であろうか?普通の三国志ファンならば、こういった人物達だろう。
 しかし、私が今回取り上げたいのは、世間一般の三国志ファンの人気を一身に受ける彼らではない。題を見て察した方も多いだろうが、私が今回スポットを当てたいのは、彼ら三国志界のトップスター(?)達の活躍を影から支えた、「縁の下の力持ち」達、詰まる所、内政、外交に従事したイマイチ目立たない文官たちである。
 しかぁし!彼らも激動の乱世を駆け抜け、今日まで名を残す者たちである。中には「三国志」の小説で、1・2回しか名が出てこない者もいるが、彼らがどのような人物であったか見てもらおうと思う。
*ここで「三国志」と言った場合、基本的には羅貫中が著した「三国志演義」のことを指します。  陳寿が著した歴史書の方は、「正史三国志」と書きます。

 

◆内政について

 

 内政担当官は、おそらく、国の中で民と触れる機会が最も多いであろう。

 彼らの仕事は大雑把に分けてこれくらいある。

@ 主君が治める土地にすむ民衆との交流を深める。
A その国における制度を作り、それを国民に広める。
B 幼い君主や太子に兵法や政治についての教育をする。
C 民衆の訴えを聞き、罪人の裁判なども行い国の治安を守る。
D 兵士を養う兵糧や、軍の装備に必要な軍資金を調達する。
 これを見ると、内政担当官の仕事は、全てにおいて、国の土台にあるという事が分かる。またDに関していえば、兵士の数、士気、強さにまでも影響してくる。
 彼らがしっかりと国を支えていないと、名将・名軍師達の遠征も兵糧不足などの理由でままならず、途中で諦めざるを得なくなる。諸葛亮(しょかつりょう)の北伐等が典型であろう。大きな敗戦が無かったにも関わらず、五回も繰り返さなければならなかったのは、軍需物資の問題により撤退を余儀なくされることが、いくどもあったからだろう。稀代の名軍師・諸葛亮をもってしても、本国での内政不足による悪影響は防げなかった。
 それだけ「内政」という物は地味だが重要な役職だということである。

 

◆外交について

 

 結構勘違いしている人が多いので予め説明しておく。「使者」と「外交官」は違う(と思う)。使者は自分を遣わした者の「言ったこと」又は「手紙など」を、決められた相手に伝える。ただそれだけの仕事である(要は昔の電話代わり)。ハッキリといえば、能力は必要ない(まあ、多少の記憶力は必要)
 だが、外交官となると話は別で、優秀な能力が必要となる。何故かといえば、古来中国、ことにそれが乱世であれば、外交の成否によって一国の浮沈興亡が決まるといっても過言ではなかった。外交官は、論客、説客ともいわれ、自分達の要求を相手に伝え、それを相手が承諾するように説得するのが役目である。場合によっては、敵国に長期滞在をする必要があることもあるし、説得に失敗すれば敵国内でそのまま処刑されることもある、常に危険を伴う仕事であったが、成功すれば大変な成果を得ることができた。昔から列強にはさまれた小国から名のある外交官がでるのは、微弱な国力を外交活動によって補わなければならなかったからであろう。裏を返せば、外交活動によって得られる成果は貧弱な国力を補うことが出来るほどの物だったということが言える。
 これらのことから、三国時代においても「外交」というものは「内政」と同じくらい大事であったことが分かる。

 

◆地味な文官列伝(本題)

 

張昭 字は子布  呉の臣
諸葛瑾 字は子喩  呉の臣
ケ芝 字は伯苗  蜀の臣
ショウエン 字は公?  蜀の臣
費イ 字は文偉  蜀の臣

 

◆番外編(徒然なるままに書きました)

 

◎蜀の滅亡と内政
 蜀は三国の中で最も早く滅んだ国である。これは「三国志」を知っている人ならば、殆どの人が知っていることである。では「何故蜀が真っ先に滅んだのか」と原因検証をすると、色々な意見が出てくる。その中で特に有力なのがこの二つ。
@バカ殿&バカ家臣のせい(つまり劉禅(りゅうぜん)と黄皓(こうこう)のせい)
A 魏の猛攻を耐え抜くだけの国力がなかったから
 どの資料(私が見た限り)にも百%正しいと確信できる原因は載っていないので、ハッキリとしたことはいえないが、私は上の二つは根本的なところで一致すると思う。
 「☆内政について」で説明した通り、幼い君主の教育や軍需物資の調達は全て内政担当官の仕事である。上の二つが真実だとしたら、この二つのような状況を作り出してしまった最も根本的な原因は、国を支える優秀な内政担当官の不足ではないか。つまり、蜀の早期滅亡の本当の原因は人材、特に内政官の不足であると思う。

 

◎毒舌外交官
 基本的な外交官の役割は「☆外交について」で説明した通りである。が、あくまで「基本的な」である。そう!世の中に例外はつきものである。これから紹介する人物は、題名通り「毒舌」でもって今日まで名をのこしている。
 張松(ちょうしょう)  字は永年(えいねん)  蜀の人

 生まれつき頭が尖っていて、鼻はべちゃ鼻、歯は出っ歯、身長は五尺(約117p)に満たない(あり得ない小ささ)・・・・・つまり、お世辞にも見てくれは良くなかった。

 張松は蜀を曹操(そうそう)に献じようと魏の都・?へと赴いた。しかし自分を格好だけで評価しまともに取り合わない曹操に腹が立ち、彼が書いた兵法書「孟徳新書」を「こんなものは蜀では子供でも諳んじる。」と嘲った。さらに曹操が「もしわしが我が精鋭でもって蜀に攻め込んだら何とする。」と問うと、張松は平然と「確かに精鋭でござるが無敵の兵ではござるまい。聞くに丞相はその昔、濮陽にて呂布(りょふ)を攻め呂布に弄ばれ、苑城にて張繍(ちょうしゅう)に敗走し、赤壁では周瑜(しゅうゆ)をおそれ、華容にて関羽(かんう)に命乞いをし、はたまた近く渭水・潼関では髭を切り目立つひたひれを捨てて辛くも馬超(ばちょう)の手から逃れられたとか。ということはいかに精鋭であっても負け戦はするということ。蜀は天険要害の地、果たして丞相に取れますかな。」と言い切った。怒りで顔を紅潮させ、言葉も出ない曹操に向かってさらにダメ押しの一言「もし丞相が蜀の地をご覧になりたければ、是非一度おいでください。恐らく、再び銅雀台にお戻りの日は無いでしょう。」この一言で(当たり前だが)曹操はブチキレて、張松をタコ殴りにして魏から追い出した。
 天下の曹操に向かってあれだけハッキリとものを言った人間は彼ぐらいだろう。
 この凄まじい程の毒舌、張松はある意味、三国時代における最強の外交官、いや、最強の人間かもしれない。

 

◆最後に

 

 とりあえず資料がない!!地味な文官ばかりしらべたので当たり前と言っちゃー当たり前ですが、とにかく大変でした。でも少ない資料から想像したり、自分の考えで書いたりするのもなかなかいいものだと思いました。資料が少なかったから言い訳しているだけと言われればそれまでですが、私的には(資料丸写しよりは)良いレポートが書けたと思います。
 何度も言うようですが、内政・外交は地味ですが、国の土台となる大事な仕事です。つまり、内政・外交を担当する文官達も国の土台を形作る大事な人材なのです。三国時代のトップスター達を常に支え続けた彼らこそ本当の英雄と言えるのではないでしょうか
 今回は、このようなよく分からない文章に目を通して下さって有難うございました。これを読んで、「三国志」に対する知識や興味を少しでも深めて頂けたらとても嬉しく思います。