張昭

 

字は子布  呉の臣
彼は「演義」では、赤壁の戦いの際に非戦降伏論を主張し、諸葛謹(しょかつきん)が使者として蜀に赴くと「彼は弟の国に行ったのです。戻って来やしません。」と言って、諸葛謹が戻ってくると赤恥をかいたりしてどうもパッとしない。だが、「正史三国志」では「演義」が書くほど弱腰でも陰険でもなかった。
張昭は張紘(ちょうこう)と共に「二張」と呼ばれ、江東で名高い賢者であった。その賢才ぶりは、彼の噂を聞いた孫策(そんさく)が自ら彼の家を何度も訪問し、幕下に入ってくれるよう頼み込んだ程である。孫策が江東一帯を平定した時、その土地を治める内政官の責任者に張昭を抜擢した。張昭の才能は国を治める事に関して特に発揮され、孫策に「張昭の才を私がうまく用いたなら、天下の功名は私が独り占めするに違いない。」とまで言わしめた。孫策は孫権(そんけん)に「内のことは張昭にまかせよ。(国内で起こった問題に関しては張昭の意見に従え)」と遺言した。孫策の張昭に対する信頼の大きさがよく表れている遺言である。
またある時、劉備(りゅうび)の使者が呉に来て孫権の目の前で蜀のことを褒めまくった時、孫権は「張昭がもしこの場にいたら、あの使者を黙らせることができたのに・・・」とぼやいたという。このことから張昭は弁が立つことも分かるが、張昭を常に側においていない孫権は孫策と比べてどうも彼を重用していないことも分かる。

 

<考察>
「正史」では張昭の国を治めることに関しての腕前はピカイチだった。ならばなぜ「演義」でパッとしないのか?内政という地味な仕事についていたせいもあるだろうが、一番の理由は「演義」での呉の正統派君主・孫権と馬が合わず、赤壁の合戦・夷陵の合戦といったクライマックスシーンにイマイチ活躍できていないからではないかと思う。