費イ

 

字は文偉  蜀の臣
劉備(りゅうび)が蜀を平定した時、彼の幕下に入った文官の一人。費?は礼儀正しく沈着冷静な性格で、どんなことがあっても取り乱すことは無かった。また、彼の理解力は群を抜いており、書物を数回読んだだけでその内容に精通し、決して忘れることは無かった。
費?はまだ身分が低かった頃、田舎の尚書を勤めていた。費?はその土地に移ってから何一つ問題を起こさずうまく治めていたので、そこの民衆達からの信頼は厚かった。その噂を聞いた諸葛亮(しょかつりょう)が、自ら費?の家に赴き、彼と長いこと語り合った。諸葛亮は、費?の政治に対する見識の高さとさわやかな弁舌に舌を巻き、彼を重用するようになった。
ある時、費?は諸葛亮の命を受け、大使として呉に赴いた。孫権(そんけん)は諸葛亮の使者をからかってやろうと、口達者な家臣を十数名用意し、費?が来ると彼に向かって議論をふっかけ舌鋒をふるって攻撃させた。しかし、費?は全ての問に正しい言葉使いと誠実な態度で道理によりつつ返答したので、誰も彼を言い負かすことはできなかった。孫権は費?の人物と才能を高く評価し、費?に向かって「君は天下の仁徳の士である。必ずや蜀朝の股肱の臣となるであろうから、もう何度もここに来ることは不可能であろうな。」と言った。

 

<考察>
彼も??(しょうえん)と同じく諸葛亮の死後の蜀を支えた、地味だが重要な人物である。劉備の死後、「諸葛亮の遠征による国力低下を防ぐための優秀な文官」が多く必要になる中、費?の存在は大きかっただろう(この辺も??と同様)。「蜀が滅んだのは費?が死んで間もなくである」という事から、魏は費?を恐れていたのではないかと私は思う。もちろんこれは推測にすぎないが、費?の働きによって回復した国力の量を考えると、魏が恐れるに値する人物であったことは間違いない。