諸葛瑾

 

字は子喩  呉の臣
「三国志」を知っている人ならば誰でもしっている諸葛亮(しょかつりょう)孔明。諸葛瑾はその兄である。このような血縁関係を持つせいか、呉蜀が争っている時や諸葛亮が論客として呉に来ている時等は家臣団に疑われるようなこともあったが、主君・孫権は諸葛瑾を幕僚として常に信頼し重く用いた。
魯粛(ろしゅく)に推挙されて呉に仕えた諸葛瑾は呉の中でも5本の指に入るほど弁が立ったので、主に外交官として度々蜀に派遣され、曹操(そうそう)が漢中を攻め取った際に開かれた荊州の所有権に関する会議にも出席した。
諸葛瑾(しょかつきん)の顔は面長でロバに似ていたそうだが、全体としては立派な容貌をしており、彼の思索性や度量がにじみ出ているような人物であったらしい。また、彼は慎重な性格だったため、何か大きな事件があると孫権(そんけん)は必ず諸葛瑾を呼び、意見を求めた。そんな時、諸葛瑾は得意の弁舌で物事の利害を理路整然と説き、自らその時点での最良策をたてた。これには他の家臣も反論できず、孫権もおおいに安心したという。

 

<考察>
敵国蜀の大黒柱である諸葛亮(しょかつりょう)の兄ということで、何かと心苦しい思いをしてきた諸葛瑾。それでも彼が終生呉に忠誠をつくした理由は二つあると思う。一つは孫権にとても信頼されていたから。もう一つは「一度仕えた君主に最後まで仕えなければならない」という彼の義と忠を基にした精神に自分が自信を持っていたからだろう。陳寿(ちんじゅ)の評は彼の人となりをしっかり表しているように思う。「仁徳・度量・規準となるようなきちんとした生き方によって、皆に認められるような人物だった。」