ショウエン

 

字は公?  蜀の臣
若干二十歳にしてその賢才ぶりは有名であった。劉備が蜀を平定すると??は彼に仕え、州の補佐となったが、まともに仕事をせずいつも泥酔してばかりであった。この噂を聞いた劉備は大変怒り、??を処罰しようとしたが、諸葛亮(しょかつりょう)が「??は国家を背負う大器です。田舎や小県を治めるようなことをさせておくような者ではありません。彼の行政は住民を安定させることを第一としており、外見をよくすることは考えていないのです。」と諫めたため、??は処罰をされずにすんだ。
諸葛亮が南蛮征伐に向かったとき、??は国を守り様々な事務の仕事をうまくこなした。南征から帰ってきた諸葛亮は国の治安がしっかりしているのを見て、留守を任せた??の働きの大きさに感じ入り「公?(??)は忠義公正を旨としており、私と共に王業を支える人物だ。」といった。また、??は諸葛亮に信頼されていたため、劉禅(りゅうぜん)の教育係や諸葛亮の後任など重用な仕事を数多く任された。
??は人を裁く時、個人的感情を一切介入させなかったので、重罪を免れることが出来た人が多かった。こういった彼の道理を基とした態度は、多くの人に信頼されたという。

 

<考察>
「演義」の多くは諸葛亮の死までしか書いていないので、蜀の二代目宰相となり国を支えた??の存在はあまり知られていない。しかし、諸葛亮の遠征も、??のような国を守ってくれる人あってのものだということを忘れてはならない。諸葛亮が??に後を託したのも、自分不在の国を支えてくれていた彼に全幅の信頼を寄せていたからだろう。諸葛亮が??に下した評価と同等の評価を得た者は、三国合わせてもそういないだろう。