6、焚書坑儒

意味  言論・思想・学術・学者などに対する激しい弾圧のたとえ。
由来

 秦(しん)の荘襄王(そうじょうおう)(→前々項)の後を継いだ秦王政は、徹底した法治主義(→p.145)で富国強兵を成し遂げた秦を率いて、中国史上初めての統一国家を作った。諸侯に力が集まりすぎる従来の封建制を廃止し、新たに郡県制を布いて中央集権国家を確立した。この秦王政こそ、あの有名な「秦の始皇帝」である。

 あるとき、淳于越(じゅんうえつ)という学者が、周代の封建制への復帰を始皇帝に勧める。それを時の丞相である李斯(りし)は退け、次のように進言した。

 「天下が分立していたとき、諸侯(しょこう)はそれぞれ学者を厚遇しました。学者達は眼前の社会が混乱に陥ったため、古をほめたたえ復古(→p.141)を説いたのです。しかし、いまや天下は皇帝の手によって統一されました。人民は法にしたがい、農耕にいそしんでいます。にもかかわらず学者どもが相変わらず古をたたえ当代をけなしているのは、人民をまどわすものと言うべきです。このような輩(やから)を放置しておいては、やがて陛下の権威を汚すにいたりましょう。かれら学者が拠り所としている書物をいっさい焼き払うべきです。」

 この進言が入れられ、医薬・卜筮(ぼくぜい)・農事・法律などの実用書以外の書物はすべて集められ、焼却された。当然ながら諸子百家(しょしひゃっか)の書物なども対象になる。これがいわゆる焚書(ふんしょ)であるが、これが原因で原文が焼失した書物も多々あるのだ。
 焚書を初めとして、法治国家・秦の法は苛酷だった。それに耐えかねた人々は、影で始皇帝を非難するようになる。それを知った始皇帝は激怒し、都の学者達を取り調べさせた。すると学者達は互いに罪をなすり合い、言い逃れをした。始皇帝は彼らを容赦なく捕らえ、合計で460もの人を生き埋めにした。これが坑儒(こうじゅ)である。坑は?とも書き、穴埋めにするという意味だ。「坑儒」という字をみれば、儒者(儒学者)のみを穴埋めにしたように読めるが、実際は儒者を含めた知識人一般が対象となったようである。
 思想などへの激しい弾圧を「焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)」というようになったのはこんなことからだ。思想の弾圧を始めとする秦の徹底的な法治主義は、中華統一の大きな原動力とはなったものの、度を過ぎて反感を買い、反乱の続発でわずか16年しか秦の命をもたせなかった。
原典 丞相李斯曰く、「…臣請ふ史官の秦記に非ざるは皆之を焼かん。博士官の職とする所に非ずして、天下に敢て詩・書・百家の語を蔵する者有らば、悉く守尉に詣し雑へて之を焼かん」と。…御史をして悉く諸生を案問せしむ。禁を犯す者四百六十人、皆之を咸陽に?にす。[史記 秦始皇本紀]

 

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