管仲・楽毅・晏嬰伝

文責:楽毅(当時高1)

 

今回の全体研究のテーマは「三国志」だが、三国志ファンの方なら、管仲(かんちゅう)・楽毅(がっき)の名は聞いたことがあるだろう。そう、かの諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)(以下孔明)が自らをなぞらえたとされる人物だ。『正史 三国志』の『蜀書・諸葛亮伝』に、孔明がまだ隆中山に草廬(そうろ)をかまえて「晴耕雨読」の生活をしていた頃の記述として、

毎にみずから管仲・楽毅に比するも、時人これを許すなきなり。

(つねづね自らを管仲・楽毅になぞらえていたが、 当時の人で、これを認める者はいなかった。)

というものがある。管仲は春秋時代、斉(せい)の桓公(かんこう)をたすけて覇者(はしゃ)に導いた名宰相。そして楽毅は戦国時代、大国斉に脅かされていた小国燕(えん)の将軍で、その斉を滅亡の瀬戸際まで追い込んだ名将である。

このような人物を自分になぞらえる孔明を、世の人は認めなかったが、孔明の学友で彼をよく知る崔州平(さいしゅうへい)・徐庶元直(じょしょげんちょく)などは高く評価していたと記されている。

また、あまり知られていないが、晏嬰(あんえい)という人物も同じく『蜀書・諸葛亮伝』に孔明が好んで歌ったとある「梁父(りょうほ)の吟(ぎん)」とよばれる歌に出てくる。梁父とは現在の山東省の泰山の麓にある小山の名前で、秦(しん)の始皇帝など歴代帝王が山川を祭ったという所である。その「梁父の吟」とは次のようなものである
歩みて出ず斉城の門
遙かに望む蕩陰の里
里中に三墳有り
累々として正しく相似たり
問うなら是れ誰が家の墓ぞ
田彊と古冶子なり
力は能く南山を排し
分は能く地紀を絶つ
一朝讒言を被れば
二桃もて三士を殺す
誰が能く此の謀を為す
相国斉の晏子なり

ここで最後に出てくる「晏子(あんし)」こそが晏嬰のことである。晏嬰は春秋時代の斉の大政治家で、「晏子春秋」はその言行録だ(後人の編録)。この吟の意味については後ほど解説する。

 

管仲・楽毅・晏嬰。それぞれ歴史に特筆される偉人だが、いったい何が孔明を引きつけたのか。この3人の生涯を追ってみることにする。

 

なお、時代順に記した方が理解が得られやすいと思われるので、このレポートでは最初に管仲(かんちゅう)、そして次に晏嬰(あんえい)、最後に楽毅(がっき)という順で紹介していきたいと思う。
また、この時代は史料の信憑性にばらつきがあり、検証が難しい時代でもある。よって、ここでは最も有名であり、「正史」つまり正式な歴史書である司馬遷(しばせん)著の『史記(しき)』をベースに筆を進めていきたいと思う。

 

はじめに 春秋戦国時代とは
管仲
晏嬰
楽毅

 

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以上、3名の人物の生涯を追ってきたわけだが、孔明が追い求めた理想の姿を想像することができたであろうか。春秋戦国時代と三国時代。孔明は、同じ分裂期の乱世の中で、人々の信頼を得、大地の恩恵を受け、天の恵みを授かる方法を、古の人々の中に探していたに違いない。
その後の孔明の活躍ぶりは書くに及ばないであろう。その支えとなったのがこれらの人物を記した書物である事も言うまでもない。「史記」や「春秋左氏伝」などなど、今でも手にとって読むことができる古典は沢山ある。読者の方々に置かれても、機会があれば、是非読んでみて頂きたい。こういった古典には文学的な価値もあり、読んでいて飽きることはないはずだ。
時代は変わった。乱世の人物の生き方を知ることが、孔明のように直接役に立つようなことは少ないだろう。自分と同じ「人間」なのに、こんな生き方をした人物が実在したのか。こう感じて頂ければそれでいいのだ。もしかしたら、あなたのなかで、何かが変わるかもしれない。