1、管仲(?〜前645)
姓は管、名は夷吾(いご)、字(あざな)※1は仲・敬仲。春秋時代の斉(せい)の賢相である。斉の桓公(かんこう)※2をたすけ、斉の富国強兵を成し遂げ、分裂抗争を繰り返す中原諸侯を再統一し、桓公を「覇者(はしゃ)」にならしめた名宰相(さいしょう)※3である。 |
◆管晏列伝◆ | |
管仲を知るための史料としては、まず『史記』の『管晏列伝(かんあんれつでん)』があげられる。斉が春秋時代にほこる大政治家、管仲と晏嬰の伝だ。著者の司馬遷は、その冒頭で以下のように述べている。
さて、管仲は潁上(えいじょう)(潁川(えいせん)のほとり)の人とある。潁川(潁水(えいすい)とも)は河南省登封県にある名峰五嶽の1つ、中嶽の嵩山の西南に源を発し、東南に流れ、安徽(あんき)省寿県において淮水(わいすい)に流れ込む川で、淮水(→p.106)の最大の支流だ。 潁川のほとりで育った管仲は、鮑叔(ほうしゅく)(鮑叔牙(ほうしゅくが)とも)という人物と友達になる。そしてその鮑叔こそが管仲の人生を大きく変える人物となるのである。 |
◆管仲と鮑叔◆ |
管仲は幼い頃貧乏だった。ある時、管仲は鮑叔とともに商売をし、鮑叔をだまして自分の取り分を多くしたことがあった。しかし、鮑叔は常に善意で彼に接し、何も言わなかったという。この2人の間の友情については、次々頁で詳しく触れるので、とりあえずは置いておく。 やがて、管仲は斉の君主である襄公(じょうこう)の公子※4である糾(きゅう)に、一方の鮑叔は別の公子、小白(しょうはく)に仕えるようになった。そして、この小白こそが後の桓公となる人物なのである。 |
◆糾と小白◆ |
さて、今出てきた襄公だが、これが大変な暴君で、むやみに人を殺した。こんな君主のもとで内乱が起こらないはずもなく、襄公は共謀されて斉の貴族である公孫無知(こうそんむち)らに殺されてしまう。その後無知が君主の位についたが、謀る者は謀られる。即位の翌年に個人的な怨恨から、遊びに出た先で殺された。斉の君主がいなくなった。ここから糾と小白の後継者争いが始まるのである。 一方、この事件より前、襄公の治世の頃、内乱を恐れてすでに糾は生母の国である魯(ろ)へ、小白は?(きょ)へ亡命していた。そこで無知が殺された斉では大臣達が密かに話し合い、小白を新しい君主として迎え入れようとした。しかし、無知の死の知らせを聞き、糾を擁す魯もだまっていない。兵を出して糾を斉へ送り届けさせようとした。他国の君主に恩を売っておけば後々有利だからである。 |
糾と小白、どちらが先に帰国するかで事の明暗が分かれる。速く斉の都に着いたものがはれて君主となるのである。管仲率いる魯の軍勢は途中、小白を襲う。管仲の射た矢は見事小白に命中し、小白は倒れてしまう。管仲はこれで安心し、帰国の足をゆるめた。 |
しかし、実は小白は生きていた。管仲の射た矢は小白の帯鉤※5にあたり、小白は死んだふりをしていただけだったのだ。この後小白は都へ急ぎ、糾より速く到着、大臣の力を得て即位した。桓公(かんこう)である。桓公は即座に兵を繰り出し、糾を擁す魯軍を撃退した。 |
◆管仲、宰相に◆ |
大勝を収めた桓公は、魯に書簡を送った。「糾は私の兄弟だから自分で殺すに忍びないので、そちらで処分してもらいたい。だが召忽(しょうこつ)※6と管仲は仇であるから、こちらで存分に処分したい※7ので、身柄を引き渡して欲しい。もしこれが聞き入られなかったら魯の都を包囲する。」 これを恐れた魯は糾を殺し、このとき召忽は殉死するが、管仲は自ら斉の捕虜となることを望んだ。これは一見、自ら殉死よりも酷刑に処せられることを選んだように見える。何はともあれ、こうして管仲は斉へ送り返されてきた。 |
桓公は、魯軍を攻める際、自分の命を狙った管仲を即座に殺そうと考えていた。しかし、ここで鮑叔(ほうしゅく)が言うのである。 「わが君が斉一国を治めようとするのであれば、高ケイ※8と私で十分ですが、もし天下の覇者(はしゃ)になろうとお考えなら、なんとしても管仲が必要です。」 |
桓公はこの意見をいれ、桓公は偽って管仲を呼び出し、処分するふりをして登用しようとしたのだ。管仲にはそれが分かっていたので、あえて捕虜となることを望んだのである。桓公は礼を厚くして管仲を向かい入れ、ついに管仲を宰相(さいしょう)に任じるのである。自分の命を狙った人物をここまで信任する桓公の度量の広さも察するべきであろう。 |
◆管鮑の交わり◆ | |
みなさんは「管鮑の交わり」という言葉を聞いたことがあるだろうか。去年我々が販売した「鑑vol.2」を読んで下さった方ならその由来までもうご存じのことだろう。 友と友の間の親密な交わりを示す言葉は山ほどある 水魚の交わり、刎頸の交わり、断金の交わり、金石の交わり、膠漆の交わり、金襴の契り 管鮑の交わりもこれらと同じく、友同士のきわめて親密な交際を指す。もうお察しだろう。管鮑の管は管仲、鮑は鮑叔を指し、この言葉は管仲と鮑叔の間の友情をうたったものなのだ。 |
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それをよく物語っているのが、「史記」管晏列伝に記されている、宰相となった管仲が語った言葉だ。長文だが、非常に印象的なので全文引用しておく。
よけいな説明は無用であろう。後世、この管仲と鮑叔の仲をたたえ、固い友情のことを「管鮑の交わり」と称すようになったのである。 |
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管仲を推薦したのは鮑叔であるが、鮑叔は常に管仲の下位にいた。天下の人々は管仲の賢明をたたえるより、鮑叔の人を見る目をたたえたという。その後鮑叔の子孫は十代あまりも、斉で名のある大夫※9であり続けた。これは浮沈の激しい時代においては非常に珍しいことと言ってよいであろう。 |
◆管仲の富国強兵策◆ |
宰相としての管仲の手腕はずば抜けていた。しつこいようだが、管仲なかりせば、桓公が覇者になれたかどうか。ここでは管仲が斉という国を一大強国にした様子を追っていこう。 |
斉は海に面した小さな国であった。地質もよくなく、農業はあまり発達しなかった。そこで管仲が目をつけたのが貿易である。海辺であることを生かし、魚や塩の交易の利で国を豊かにし、兵を強くした。富国強兵である。 |
また、管仲の政治で特徴的なのは人民の欲するところに従って政治をした、ということだ。これはつまり大衆が欲するものを与え、欲しないものは除く。国民の要求を肯定し、国民全体が豊かになってゆけるような政策をとったということである。貴族のための政治ではなく、庶民のための政治をした政治家はこの時代においては非常に希有だった。 管仲の著と言われる※10『管子 牧民篇』にある「倉廩実ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」という有名な言葉をご存じだろうか。経済的に生活が安定してはじめて、礼儀や節度をわきまえる心を知るという意で、前述した管仲の政略をよく表している。前に紹介した管晏列伝の冒頭部分に「管仲は豪奢であった」と書かれているが、それもこの考え方からくるものである。管仲は人間の欲望が経済を動かすことを知り抜いていたのだ。 |
◆柯の会盟◆ |
さて、斉の隣国、魯に曹沫(そうかい)(曹歳h亅とも書く)という人物がいた。彼はその大力を魯の荘公(そうこう)に認められ、将軍となった。彼は侵攻してきた斉と戦い、一度勝ったが、後に3連敗してしまう。斉を恐れた荘公は遂邑(すいゆう)という魯の領地を差しだし、和睦をしようとした。そしてその会盟を柯という斉の町で行ったのだ。 斉の桓公と魯の荘公が壇上で誓いをすませた時だった。なんと曹沫は突然匕首※11を手に、壇上の桓公にせまり、突きつけたのだ。桓公の「何が望みだ」という問いに対して、曹沫は「斉は強く、魯は弱い。それなのに、斉の魯に対する侵攻はひどすぎる。土地を返して欲しい」と要求した。 |
桓公はその要求を呑み、魯から奪った土地を全て返すことを承諾した。この桓公の言葉を聞いた曹沫は匕首を投げ捨て、元の位置に平然と座った。桓公は怒り、即座に約束を違えようとしたが、ここで管仲が言った。「小さな利益を得て満足していても、約束を違えば諸侯に信頼されなくなり、天下の援助も失われてしまう。土地は与えてやるのがよい」と。これを聞いた桓公は魯から奪った土地を返すことにし、曹沫が3度負けて失った土地を全て返した。 |
ここで管仲が桓公に信義を守らせたことで、諸侯は斉を信頼し、斉のもとに帰服した。これにより斉はますますその力を強大にしたのだ。『管子 牧民篇』にいう「之に与うるの取ると為るを知るは、政の宝なり(人に与えることが人から取ることだと知るのが、政治の秘訣なのだ)」。 |
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かくして斉は富国強兵を成し遂げ、その斉の指導者で管仲が補佐した桓公は覇者となる。この時紀元前697年。桓公についても触れておきたいが、管仲とそれる上、非常に長くなりそうなのでまた別の機会にとっておくことにする。 |
前述した通り管仲は豪奢で、その富は主君のそれと匹敵するほどであったが、斉の国民は彼の功績を多として、彼が奢侈にすぎるとは言わなかったという。 |
管仲の死後も斉では彼の政治の方法が受け継がれ、斉は強国の地位を揺るぎなくするようになる。 |
管仲が活躍したのと同じく斉の国に、晏嬰(あんえい)という管仲とは正反対の政治家が現れるのはこの100年後だ。晏嬰については次項を読んで頂きたい。 |