3、楽毅(?〜?)

戦国時代の情勢
楽毅の生まれ
先ず隗より始めよ
斉のビン王
五カ国連合軍
忠義の士・楽毅
楽毅の謎

 

姓は楽、名は毅。魏(ぎ)の人で、戦国時代の武将である。大国斉(せい)に脅かされていた北方の小国燕(えん)の将軍で、周辺諸国の王を説いて対斉の五カ国連合軍を結成、70もの城を一気に攻め落として斉を滅亡の寸前まで追い込んだ名将である。

◆戦国時代の情勢◆
さて、楽毅が活躍する時代は管仲(かんちゅう)・晏嬰(あんえい)の春秋時代よりも後、東周の時代の後半期に当たる戦国時代である。前述したが、このころは
(しん)・楚(そ)・燕(えん)・斉(せい)・趙(ちょう)・韓(かん)・魏(ぎ)

の「戦国七雄」と呼ばれる7つの強国が互いに戦乱を繰り広げていた時代である。その中でも特に強国といわれるのが、西の秦・東の斉だ。この斉の動向が、楽毅の運命を大きく左右する。このころ斉は前述した管仲や晏嬰のおかげで、東方の一大強国まで成長していた。この斉が2つを除く全ての城を落とされ、滅亡寸前まで追い込まれることになると誰が想像しただろうか。

◆楽毅の生まれ◆
前で管仲・晏嬰を知るための史料として『史記』の『管晏列伝』を挙げたが、楽毅についての記述も同じ『史記』の『楽毅列伝』に見られる。『楽毅列伝』の冒頭で司馬遷が述べている言葉は以下の通りだ。
自ら立てた方策どおりを実行し、五カ国の兵を連合して、
弱い燕のために強力な斉に復讐し、〔燕の〕先君の受けた恥をすすいだ。
ゆえに楽毅列伝第二十を作る。

詳しくは後述するとして、まずは楽毅の生まれだ。ただ、実はこれは定かではない。楽毅の先祖の楽羊(がくよう)が魏の将軍として中山(ちゅうざん)という国を平定し、その子孫が中山の首都、霊寿(れいじゅ)で代々続いたという記述はある。そしてその子孫の一人が楽毅なのだ。しかし、彼が霊寿で生まれたという記述はなく、趙で推挙されたところからしか書いてない。

さて、その趙で内乱が起こったので、楽毅は趙を出て魏へ移る。その後、魏の使者として燕に赴いた時、燕の昭王(しょうおう)に登用されるのだ。

◆先ず隗より始めよ◆
使者として趙に赴いた楽毅が任務途中で昭王※20に登用されるには訳がある。それには多少の説明がいる。

昭王の一代前の君主王カイは、その時の宰相、子之(しし)に多大の信頼を置いていた。その信頼が度を超し、王カイは子之に君主の位を譲ろうとしてしまったのだ。当時君主は世襲制なので、これは異例の事態といってよい。当然太子の平(へい)との間に争いが起き、内乱となった。子之の乱と呼ばれる。この乱の際、燕は隣国斉のビン王につけ込まれ、さんざんに打ち破られたのだ。

結局、王カイは死し、子之は逃亡したか(『史記』燕世家)死んだか(六国年表)といわれ、平が即位し、昭王となる。このことから昭王は斉を恨み、一刻たりとも斉に仕返しを忘れたことはなかったという。しかし、燕は北方の小国で、力がない。これでは斉への報復などできっこないので、昭王はへりくだって各地から有能の士を集めたのだ。

その昭王に対して、郭隗(かくかい)が進言したといわれるのが「先(ま)ず隗(かい)より始めよ」という、有名な言葉である。賢者を招くためには、まず自分のようにさほど優秀ではない者を優遇せよ、そうすればこれを伝え聞いて私より優秀な人材が集まってくる、ということだ。この言葉は、遠大のことをなす時は、まず手近なことから始めなさい、という意味で現在でも使われている。ちなみに、この言葉の出典は『史記』ではなく、『戦国策』であるが、どちらにしろ昭王が賢者を招く手始めとして郭隗を優遇した点は変わりなさそうだ。
これほどまでに人材登用に熱心だった昭王が、使者として現れた楽毅(がっき)の才能を見抜き、謙遜する楽毅を引き留め、臣としたのだ。この時の楽毅の位は亜卿。上卿※21に次ぐ官位であったことが予想されるので、大抜擢である。

「先ず隗より始めよ」が功を奏し、楽毅の他にも、魏からは大学者鄒衍(すうえん)※22、趙からは大政治家劇辛(げきしん)、など有能の士が続々と集まってきたという。

◆斉のビン王◆
前項で出てきた斉のビン王だが、これが戦争好きの暴君であった。富国強兵を成し遂げた斉は圧倒的な強さを示し、南は楚、西は三晋(春秋時代の晋が分裂してできた韓・魏・趙の三国)を破り、その後秦を攻め、趙が中山を滅ぼすのを手伝い、宋を破滅させて領土をどんどん広げていった。天下の諸侯はその脅威にさらされ、斉に服従するようになった。思い上がったビン王による度重なる出兵に、人民は苦しみ続けたという。

◆五カ国連合軍◆
そのころ、燕の昭王は楽毅に斉を討つ方策を聞いていた。それに対し、楽毅は「斉は強国で、燕一国で攻めるのは難しい。趙・楚・魏と手を結ぶべきだ」と進言、自ら趙へ赴き恵文王(けいぶんおう)を説得した。また、別の使者を派遣して楚・魏とも連合し、さらに韓も自ら参加した。みなビン王の傲慢を憎んでいたからである。
楽毅は趙・楚・韓・魏・燕の五カ国連合軍の総指揮官として、斉軍を済水(せいすい)の西で打ち破った。ここで諸侯の軍は引きあげたが、楽毅のみは燕軍を率いて斉の都・臨シ(りんし)※23に攻め込んだ。そしてついに臨シを陥落させ、斉の宝物や祭器などをことごとく奪って燕へ送った。その中には子之の乱の際に斉に奪われた燕の宝物もあったようである。昭王はいたくよろこび、自身済水のほとりまで出迎えて楽毅をねぎらったといわれる。楽毅はその功で昌国(しょうこく)に封じられ、昌国君と号せられた。昭王は斉のまだ降参しない城を攻めるよう命じ、帰国した。
その後、斉に残った楽毅は5年間でなんと斉の70余城を下した。これは驚異的な数字である。あれほど栄えていた斉の版図も、わずかの間に急激に小さくなった。斉は滅亡寸前に追い込まれるが、ビン王の跡を継いだ襄王(じょうおう)が立てこもるキョと即墨(そくぼく)だけは陥ちなかった。

◆忠義の士・楽毅◆
楽毅の才能を見抜いた昭王は充分名君といって差し支えのない人物であるが、その昭王は、楽毅が斉を攻めている間に死んでしまった。後継には昭王の太子が即位し、恵王(けいおう)となった。これが楽毅の運命を大きく傾けることになる。
理由は明記されていないが、恵王は太子であった頃から、楽毅にたいしてよからぬ感情を抱いていたという。斉の田単(でんたん)はこれを聞いて、燕に間者を送り込み、こういう噂を立たせた。

「斉で残っているのは?と即墨のみ。いつでも陥とせそうなのにそうしないのは、楽毅が恵王と仲が悪いので、斉に軍を留めておき、機会をうかがって自分が斉で王として立ってしまおうと考えているからだ。斉が恐れているのは、誰か別の将軍がきて楽毅と交代することである。」

以前から楽毅に含みのある恵王は、楽毅を疑って召還し、騎劫(ききょう)を代わりの将軍として派遣した。反間の計にのせられた形になる。誅殺を恐れた楽毅は燕に帰らず、趙の恵文王(けいぶんおう)のもとに身を寄せた。恵文王は楽毅を観津(かんしん)に封じ望諸君(ぼうしょくん)と呼び、重く用いることで燕・斉を威圧した。一方、楽毅と代わった騎劫は、田単の計に陥れられ、斉から奪った領土をなんと全て取り返されてしまった。

ちなみに、そのとき田単は刀剣を角にしばりつけた牛の尾に火をつけて、敵へ突進させるという奇抜な戦法で燕軍を大破している。

恵王は楽毅を交代させて斉の土地を全て失ったことを悔やみ、また楽毅が趙の軍を率いて燕を攻めはしないかと恐れ、楽毅に次のような書簡を送る。
先王は国家の全てを将軍に委ね、将軍は斉を破って国家の仇を討った。
私は一日として将軍の功を忘れたことはないが、たまたま先王が世を去り、
新たに即位した私の判断を側近の者が誤らせた。
騎劫を代わりにやったのも、将軍の疲れを思ったゆえのことで、
しばらく休んでもらうつもりだった。将軍は聞き違えたのではないか。
私と仲が悪いからといって、燕を捨て、趙についた。
将軍にとってはそれはよいだろうが、
先王が将軍を厚遇した恩にどのように報おうと思われるか。

これは謝罪とともに、問責の文でもあるのはお分かりだろう。また、再び燕に仕えてくれまいか、という願望も含まれている。これに対し、楽毅は次のように答える。長文だが、『楽毅列伝』より、多少かいつまみながら引用したい。

聖賢の君主は近親者だからといって官位・俸禄を与えず、
功績の多い者を賞し、才能ある者に官位を与えると聞きます。
先王はまさにそのようなお方であり、魏から使者として参ったのを機に、
亜卿に任ずるという、過分な言葉をお受けつかまつりました。

善く事を起こす者は必ずしも善く成し遂げず、
始めを善くする者は必ずしも終わりを善くしないと聞きます。
讒言のそしりに陥り、先王の名を貶めるのは、
私の最も恐れるところにございます。
測り難き罪に出会いつつ、僥倖をたのんで己の利とするは、
義としてなし得ぬところでございます
※24

また、昔の君子は交際が絶えても相手の悪口は言わず、
忠義の臣は国を去っても、責任を君主に押しつけて
自分の潔白を言い立てない
※25とも聞きます。
私は不才ながらもこの教えを守ります。

これを読むと、恵王は楽毅(がっき)の子楽間(がくかん)をあらためて昌国君に封じた。また、後にこれを読んだ漢の時代のカイ通(かいとう)と主父偃(しゅほえん)は、思わず書を下に置き、涙を流さなかったことはなかったといわれる。

楽毅はその後、趙と燕とを往来して両国の友好関係を築き、趙で死んだ。『史記の事典』ではこのことについて「名君昭王の信任に報いた楽毅は、有終の美を飾った」「楽毅は、名君の信頼に精を尽くして報いた信義の人だったのである」としている。楽毅は単に戦いがうまいだけの将軍ではなかったのである。

その後も恵王は楽間を重く用いるが、その楽間も30年後に恵王に代わった燕王喜(き)と、楽毅の時と同じように対立し、趙へ亡命する。そこにいた楽間の親戚の楽乗(がくじょう)も趙の将軍廉頗(れんぱ)と内戦を起こしてしまい、敗走する。

しかし、その後しばらくたち、漢の高祖(こうそ)(劉邦(りゅうほう))が趙の故地に立ち寄った際、楽毅の子孫がいないかとたずね、楽叔(がくしゅく)がいると聞くと、楽郷に封じて華成君とした。このことについて、『史記評林』のなかで黄震は、楽毅の信義が深い感銘を人に与えたからだと讃え、「楽毅は戦国の士に非ざるなり」つまり楽毅は戦国時代の人とは思えない、とまで述べている。

◆楽毅の謎◆
しかし、楽毅には未だに謎とされている部分がある。そう、なぜキョと即墨(そくぼく)を陥とさなかったのか、ということである。『楽毅列伝』を見る限りでは楽毅にはやましいところがないように見え、その理由は分からない。ところが、同じ『史記』のなかの『田敬仲完世家』を読むと、次のようなことが書かれている。
済水(せいすい)で連合軍に敗れたビン王は都である臨シを追われ、各地を転々としたあげく、キョにはいった。楚はトウ歯に軍を率いさせ、斉を援助したのだが、このトウ歯がビン王を殺し、斉から宝物を奪い取る。それを燕の将、すなわち楽毅と山分けした、とあるのだ。この記事をどう読むかは様々であるし、『田敬仲完世家』は斉の沿革を記したものであるから斉の視点での記述、ということをふまえる必要もあるかもしれないが、いずれにせよ、もしこの事実があったとすれば、恵王(けいおう)に疑われても不思議ではない。読者の方々におかれては、どうお考えになるであろうか。いろいろと想像を広げてみてほしい。
ただ、『史記評林』にある黄震の評では、楽毅(がっき)が斉を破って宝物を燕に送ったのは※26仁義の軍隊のすることではない、と批判するものの、楽毅がキョと即墨を陥とさなかったのは、窮地に立つ斉の必死の防戦と、燕軍の疲労という状況のためだったとしている。

今このことを論じて真実が明らかになるわけではない。逆にいえば、こういった「謎」があるからこその歴史なのだ。上記のように同じ記事にも様々な読み方があったり、と、古の時代に自由に想念をめぐらすことができる。楽毅を僕がペンネームに使っているのに気づかれた方もいらっしゃることと思うが、この「謎」こそが一層僕の楽毅への関心を強めているともいえるのである。