はじめに

春秋戦国時代とは

春秋戦国時代とは
春秋五覇

◆春秋戦国時代とは◆
管仲について触れる前に、基礎知識として中国の春秋戦国時代の情勢について触れたいと思う。中国の春秋時代は紀元前770年、犬戎(けんじゅう)と呼ばれる異民族の侵略を受け、周が都を鎬京(こうけい)から東にある成周(せいしゅう)に移したこと(これ以前を西周の時代、以後は東周の時代ともいう。春秋戦国時代は東周の時代に当たる)に始まる群雄割拠の時代である。封建制の崩壊で周王朝の権威は次第に失墜、各地の諸侯(しょこう)(それぞれの国の支配者)が戦乱を繰り広げていた。いってみれば、日本の室町時代のような状態である。このときに活躍した主要な国として、司馬遷は『史記』の「十二諸侯年表」に
(ろ)・斉(せい)・晋(しん)・秦(しん)・楚(そ)・宋(そう)・衛(えい)

(ちん)・蔡(さい)・曹(そう)・鄭(てい)・燕(えん)・呉(ご)

の13国をあげている。これらの国々が戦乱を繰り広げ、強国が弱国を併合。前403年には晋が趙(ちょう)・韓(かん)・魏(ぎ)の3つの国に分裂し(これをもって春秋時代の終わりとする)、戦国時代に入ると

(しん)・楚(そ)・燕(えん)・斉(せい)・趙(ちょう)・韓(かん)・魏(ぎ)

のいわゆる「戦国七雄(せんごくしちゆう)」とよばれる7つの国になる。そして最終的には法治主義を徹底させ、富国強兵を成し遂げた秦がすべての国を併合し、中国史上初めての統一国家を作った。ここで秦を率いた秦王政(せい)は中国史上初めて「皇帝」を名乗る。いわゆる秦の始皇帝である。しかし、法治主義を徹底しすぎた秦は国民の反感を買い、各地で相次いだ反乱でわずか16年で滅びてしまう。このことにより、中国ではまた群雄割拠の時代が幕を開けることになるのだ。

このように、歴史では併合と分裂が繰り返されている。春秋戦国時代はまさに分裂の時代のまっただなかである。諸侯は戦乱に明け暮れる日々を過ごしていたが、その一方で春秋戦国時代は思想家達が自由な発想をしていた時代でもある。
秦が統一国家として君臨していた時代には、有名な「焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)」(→p.133)のように、医薬・卜筮(ぼくぜい)・農業関係以外のすべての書を焼いたり、儒者(正確には諸生=学識を備えた人)を460余人も穴埋めにしたりし、法家一尊の体制を作り上げるという、思想的な統一を強制した。このように、統一国家では思想を弾圧、あるいは特定の思想を保護するなど、思想を制限する事が多い。国家と異なる思想をもたれて反乱を起こされてはいけない、という統一国家ならではの「国を保つ」ための懸念がそうさせるのである。

しかし、春秋戦国時代などの分裂時代では、君主は競争の時代を勝ち抜くため、優秀な頭脳を必要とする。各国は優れた人材を求めるため、学者や知識人を優遇する。こういったことが春秋戦国時代の思想界を非常に活発にしたのだ。儒教の祖である孔子(こうし)もこの時代に生まれた。「諸子百家(しょしひゃっか)」と呼ばれる思想家が大いに活躍したのには、こういった時代背景があったのである。そして、この諸子百家を最も多く受け入れ、優遇していたのが東方の大国斉であり、管仲(かんちゅう)、そして後に紹介する晏嬰(あんえい)という大政治家を生んだ国だった。

◆春秋五覇◆
話がそれてしまった。で、管仲が活躍する時代の話であるが、それは東周の時代の前半、春秋時代に当たる。この春秋時代は一口に言えば「覇者(はしゃ)の時代」である。覇者とは覇道、すなわち武力・権謀を用いて天下を治めた者のことをいう。要するに戦乱に打ち勝った諸侯の首領のことだ。水上静夫氏はその著書「覇者・斉の桓公(かんこう)」の中でこの覇者には次の2つの型があると指摘している。
・すでに実力や権威を失った周王室を己の持つ実力によって補佐する型

・心中すでに王室を尊崇する意志は全くなく、ただ己の実力を誇示する型

いずれにせよ、これらは周王室の権威が失墜していることを物語っている。覇者は、その周王室のかわりに各国の君主ににらみをきかせ、秩序を維持する役割も果たしていたのだ。各国の君主はこの覇者を目指して戦乱を繰り広げていた。乱暴に言ってしまえば、そんな時代が春秋時代であったといえるであろう。『孟子』にも「春秋に義戦なし」などという言葉がみられる。

さて、覇者に関連して、「春秋五覇(しゅんじゅうごは)」という言葉がある。読んで字のごとく、春秋時代にうまれた5人の覇者をいうのだが、実は誰が当てはまるか、諸説がある。詳しくは触れないが、諸説ある中でも揺るぎないのが「斉桓晋文(せいかんしんぶん)」と一言で言われる、斉(せい)の桓公(かんこう)と晋(しん)の文公(ぶんこう)である。そしてこの斉の桓公を覇者に導いた人物こそが管仲なのである。それでは、管仲に視点を移していこう。