2、晏嬰(?〜500)

晏嬰の生まれ
節倹力行
景公を諫める
社稷を主とす
逸話その1−越石父
逸話その2−晏子の御
逸話の意味
梁父の吟

 

姓は晏、名は嬰、字(あざな)は仲(平仲とも)。春秋時代の斉の大夫である。霊公(れいこう)・荘公(そうこう)・景公(けいこう)の3代にわたって斉に仕えた、管仲と同じく春秋時代の斉の賢人宰相だ。『晏子春秋』はその言行録だが、実際は後人の編録。晏子(あんし)は晏嬰の敬称。

◆晏嬰の生まれ◆
前項でもふれたとおり、『史記 管晏列伝』には晏嬰についての記述がある。しかし、そこで述べられていることは晏嬰の日頃の生活の様子と、2つの逸話(エピソード)だけである。これだけでは晏嬰の生涯を追うことは難しい。しかし、同じ『史記』の『斉太公世家』という、斉の国の歴史を記してある項には、晏嬰の様子が書かれているので、こちらも参考に書いていきたい。ちなみに、断らなかったのだが、実は管仲(かんちゅう)について執筆する際にも一部でこれを参考にした。

さて、晏嬰の生まれだが、『管晏列伝』にライの夷維(いい)の人と記述がある。ライは斉の東方、現在の山東省に位置する国で、夷維はその中の高密県あたりを指す。

◆節倹力行◆
晏嬰は節倹(費用を節約すること)・力行(努力して実行すること)をもって重んぜられた、と『管晏列伝』にある。管仲は豪奢だったが、その反対に晏嬰は斉の宰相となってからも食事に肉は2皿使わず、下女には帛を着せないなど、質素倹約をむねとした。これは当然私的なことだけではなく国政においてもそうで、渡辺精一著の『史記物語』には管仲と晏嬰を比べて、「管仲が右上がりのバブル型宰相ならば、晏嬰はその後始末に登場した財政再建型の宰相といえそうである」という記述まである。
君主にことばをかけられればまっすぐに言い、
ことばをかけられなければ自分の行いをまっすぐにしていた。
国の政が道理にかなっていれば、ただちに君命にしたがい、
道理にかなっていなければ、君命を慎重に熟慮し、おこなうべきことをおこなった。

これは「管晏列伝」にある、朝廷における晏嬰の様子についての記述だ。晏嬰の名声はすぐに諸侯に広まったという。

◆景公を諫める◆
ある時、東北の空に彗星が現れた。これは斉に反乱がおこるという不吉な前兆である。それを不安がる景公と晏嬰のやりとりを『史記 斉太公世家』よりご紹介しよう。

当時、景公が宮殿を修築し、犬馬を蒐集し、奢侈にふけり、租税を重くし、刑罰を厳しくして、民を苦しめていた、という事実があったことを頭に入れてから、読んで頂きたい。

晏嬰: わが君は台を高く築き、池を深く掘り、租税を取り立てることまだまだ足りないかのよう、
また刑罪を執行すること、まだまだ御意に満たないかのように見受けられます。
やがて妖星
※12があらわれることでしょう。彗星など恐れている場合ではございますまい。
景公: これを禳い除くことができないだろうか。
晏嬰: 神官の祈?で招くことができるものなら、これを禳い除くこともまたできるはずです。
さりながら人民で苦しみ恨んでいるものは、万をもって数えるほどおります。
わが君はただ一人の神官で彗星を禳わせようとなさいますが、
どうして衆口の恨みで出てくる妖星に勝つことができましょう。

大衆の祈りにどうして一人の神官で勝てるのか、ということだ。いくら君主の気分を害するような内容であっても、このように晏嬰はいつでも主君にまっすぐ諫言した。これはほんの一例にすぎないのだ。主君の顔色をうかがうようなことなしに諫言を行う。そんな晏嬰を『史記』の著者司馬遷は、これぞまさに「進んでは忠を尽くさんことを思い、退いては過ちを補わんことを思う」ということだ、と『孝経』を引用して賞賛している。自らの保身を第一に考える世の中で、晏嬰のような存在はまれであったのであろう。

◆社稷を主とす◆
後継者決めが原因で国が乱れることはこの時代、非常に多くある。晏嬰が父の後をうけ斉に任官した時の斉の君主、霊公(れいこう)も例外ではない。この霊公ははじめ、太子※13として光(こう)という人物をたてた。しかし、のちに霊公は光を廃し、妾腹の子である牙(が)を太子としてしまう。これがそもそもの発端である。

霊公が病にかかると、崔杼(さいちょ)という人物が廃されてしまった光を再度太子とし、霊公の死後、君主の位に立てた。これが荘公(そうこう)である。荘公を擁した崔杼は当然ながら権力を一種に握ることになる。ところがこの荘公も、崔杼の妻を奪い、怒った崔杼に謀られ、崔杼の屋敷で殺される。ここで晏嬰(あんえい)が名高い行動に出る。

荘公が殺されたと知った晏嬰はいち早く崔杼の屋敷へ駆けつけ、こう言った。「わが君が社稷(国家)のために死んだのであれば、私も死にましょう。わが君が社稷のために逃亡したのなら、私も逃げましょう。しかし、自分のために死んだのであれば、私的な側近でもない限り、誰が殉死しよう。」

彼は屋敷に入ると、荘公の屍を膝に載せて哭泣し、三踊(さんよう)の礼※14をして退出した。これを見たある者が晏嬰を殺すように進めたが、崔杼は「人望の厚い男だから、殺すと人心が離れる」と言って殺さなかった。斉の群臣で荘公に別れを告げたのは晏嬰一人である。誰もが崔杼を恐れ、近づきもしない中、命がけの行動であった。司馬遷はこれぞ「義を見て為さざるは勇無きなり」だ、と『論語』を引用してここでも賞賛している。

さて、この晏嬰の発言は、春秋時代の思想の変化を読みとることができるものとして、非常に重要視されている。難しい話なのであまり詳しくは触れないが、古代中国の歴史小説を多く手がける宮城谷昌光氏はその小説「晏子(あんし)」のなかで、この思想の特徴を「社稷を主とす」の一言にまとめている。つまり、一国にとって大切なのは、君主よりも社稷だ、ということである。

これについて晏嬰は「君主というものは、民の上に立っているが、民をあなどるべきではなく、社稷に仕える者である。臣下というものは、俸禄のために君主に仕えているわけではなく、社稷を養う者である。」と言っている。つまり、君主と臣とは国を治めるという行為を媒体として結ばれるものであり、その媒体がなければ無関係である。臣は君主から領地を与えられるが、臣は社稷に対してのみ責任を負うものだということだ。これまでは、臣は直接君主に結びついていた。君主が死ねば臣も一緒に死ぬのである。しかし、このころから君主の絶対性は次第に薄れていき、実権は臣によって握られるようになるのだ。

これで先程の発言の意味も分かってきたことだろう。実際この時荘公に殉じて死んだものには、私的な臣が多かったようである。

さて、政権を手にした崔杼(さいちょ)は、荘公の異母弟を君主として立てる。景公(けいこう)である。景公に右相に任じられた崔杼は、同じく左相に任じられた慶封(けいほう)とともに、内乱の勃発をおそれ、「崔氏、慶氏に味方しないものは死刑にする」と言い放ち、国人に服従と誓わせた。しかし、この時晏嬰は天を仰いで嘆き、「私はなんとしても、ただ君に忠を尽くし、社稷に利するものにのみ従うのである」と言って誓わなかった。

慶封は晏嬰を殺そうとしたが、崔杼が「忠臣だから許してやれ」と言い、手を出さなかった。権力者に一目置かれるほど晏嬰(あんえい)の名声は揺るぎないものだったのだ。崔杼は程なく慶封に殺され、慶封も斉の有力者に滅ぼされる。

同じくこの晏嬰の思想を物語る問答がある。晏嬰は霊公・荘公・景公の三代に仕えた。前述したが、君主が死ねば臣も殉死するのがそれまでの習わしだったので、晏嬰はこのことを批判された。そこで晏嬰はこう答えた。「堅い1つの心を持っていれば百人の君主に仕えてもよいはずだ。三つの心を持って一人の君に仕えるようなのとはわけが違う」。他の逸話と同じく、このような話は後世の制作であった可能性が強いが、主君と臣の在り方が変わってきたことを示すよい例と言ってよいだろう。晏嬰は新しい政治思想の先駆なのである。

◆逸話その1−越石父◆
冒頭で『史記 管晏列伝』には晏嬰に関する2つの逸話が記されていると記したが、ここでその2つをご紹介しようと思う。
越石父という人物がいた。彼は賢者であったが、囚人として扱われていた。旅の途中で彼にあった晏嬰は、彼の才能を見抜き、自分の馬車の左のそえ馬を身の代として越石父を自由の身にし、同乗して帰ったが、何も言わずに自室へ入ってしまった。すると、しばらくして越石父は絶交を申し出た。晏嬰は驚き、理由を尋ねたところ、越石父は次のように答えた。

「『君子は己を知らざる者には屈し、己を知る者に志を伸ぶ※15』と聞きます。あなたが私を救ってくれたのは私を理解して下さった、つまり『己を知る者』ですが、『己を知り』ながら礼が無くては、私は囚人に戻った方がましです」

晏嬰はそのとき彼を上客として優遇したという。

逸話その2−晏子の御◆
「晏子の御」という言葉をご存じだろうか。これも「鑑vol.2」の「故事成語研究」に載せたものなので、既にご存じの方もいるかもしれない。『管晏列伝』の2つ目の逸話は、この「晏子の御」についてである。
晏嬰が斉の宰相となってからのこと。彼の御者(ぎょしゃ)※16の妻は、門の隙間から夫の様子をのぞいていた。すると、その夫は斉の宰相の御者として、意気揚々、はなはだ得意気な様子だった。彼が帰ってくると、妻は離婚を申し出た。驚いた御者が訳を聞くと、妻は答えた。

「晏子さまは身の丈が6尺足らずの小さな体にもかかわらず、斉の宰相として天下にその名を知られています。それなのにいつも謙虚でいらっしゃいます。あなたは8尺もありながら、人に使われる身分で満足しているようです。だから、私は出て行きたいと言うんです」

それからその御者は自らを抑制して謙虚にした。晏嬰が不思議がって訳を尋ねたところ、御者はありのままを答えた。それを聞いて晏嬰はその御者を推薦し、大夫としたという。

このことから、主人など他人の権威・威光などに寄りかかって得意になることや、そのような人のことを「晏子の御」または「晏子の御者」「晏御揚々(あんぎょようよう)」などと言うようになったのである。

◆逸話の意味◆
司馬遷が特にこの2つの逸話を取り上げたには、訳があるといわれる。
司馬遷自身、匈奴(きょうど)※17に投降した李陵(りりょう)という人物を弁護したことで武帝(ぶてい)の怒りに触れ、投獄され、刑を受けている。受刑者の中にも賢人はおり、それを見抜いた晏嬰(あんえい)の目にあこがれ、また越石父(えつせきほ)をうらやんだのであろう。

また、2つ目の逸話も、司馬遷自身の悲運との対比のため載せられたとしてよい、と小川環樹訳『史記』の注にある。

司馬遷は、管晏列伝の最後に「かりにもし晏子(あんし)そのひとが世にあったら、わたしはその鞭をとる身※18となっても、あおぎ慕うところである」と、最大級の讃辞と追慕の念を述べている。晏嬰の人間性には人を引きつけてやまない魅力があったのだろう。

◆梁父の吟◆
導入部分でも少し触れたが、孔明が隆中で好んで口ずさんだといわれる歌がある。『芸文類聚』巻十九の「吟」部に収められた諸葛亮作という「梁父の吟」がそれに当たる。最後に、この「梁父の吟」の意味を原文とともに見てみよう。
歩みて出ず斉城の門
遙かに望む蕩陰の里
里中に三墳有り
累々として正しく相似たり
問うなら是れ誰が家の墓ぞ
田彊と古冶子なり
力は能く南山を排し
分は能く地紀を絶つ
一朝讒言を被れば
二桃もて三士を殺す
誰が能く此の謀を為す
相国斉の晏子なり
古の斉の都、臨シ(りんし)の城門を出ると、遥か先の蕩陰村にまったく同じ形をした
三つの大きな土饅頭が並んでいるのが見える。
その墓は他ならぬ、田彊と古冶子※19の墓である。
彼らは、文武両道に通じた豪傑であったが、しかるに、ある日、讒言されて、
二つの桃を三人で奪い合い、結局、三人ともが死ぬことになった。
いったい誰がこのような策謀をめぐらせたのか。
これこそあの斉の名宰相晏子である。
ここに出てくる3人の豪傑は、斉に武勇をとどろかせていた。この3人が自分の功を誇り、傍若無人な振る舞いに及んだのを見て、晏嬰は景公に「これでは下克上の風潮がうまれるので、今のうちに除いた方がよい」と進言した。
晏嬰は彼らに君主の前で、功績をもって2つの桃を争わせた。2人が先に桃を取ったが、自分の貪欲を恥じて自刃し、残った者も自分一人が生きるわけにはいかない、と自刃した。晏嬰(あんえい)は、誰の手にも負えなかった3人を口先だけで自刃に追い込んだのである。他の話と同様、歴史的事実としてとらえるには難があるが、彼の知恵をたたえるエピソードとして民衆の間で民謡として伝えられてきたものであろうといわれている。

 

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晏平仲、善く人と交わる。久しくしてこれを敬す

(晏平仲は交際上手である。長く付き合うほど彼への敬意が増してゆく)

司馬遷は晏嬰の御者になりたいとまで語ったが、これは、『論語』に記されている、儒家の祖・孔子が晏嬰を誉めた言葉だ。いかに晏嬰の人望が厚かったかがうかがえよう。彼は誰もが認める「偉人」だったのだ。