1、三舎を避く

意味  おそれはばかって避けること。また、とても及ばないとして相手に一目置くこと。相手を敬遠して避ける意。
由来

 時は古代中国・春秋時代。晋(しん)の公子※27重耳(ちょうじ)は、父献公(けんこう)の愛妾驪姫(りき)の讒言(ざんげん)によって亡命を余儀なくされた。重耳は皇位継承候補者でありながら、この後なんと19年もの間、諸国を渡り歩く苦悩の人生を歩むことになる。

 その途中で南方の大国、楚(そ)を訪れたときのことである。楚の成王(せいおう)は重耳を手厚くもてなし、宴会の席でこう聞いた、「晋に帰国されたら、何を返礼にくださるか」。成王は重耳をためしたのである。
 重耳は、物資が豊かな楚にはない物はなく、こちらから差し上げられる物はない、と答えたが、成王がなおせまるのでこう答えた。「将来互いに戦場で相まみえるようなことがあれば、我が軍を3舎退けましょう。」もし将来晋と楚の間で戦争が起これば、3舎、すなわち90里後退させる、といったのである。ちなみに、1舎は軍が一日で進む距離を指し、90里はおよそ36qだ。
 楚の宰相の子玉(しぎょく)はこれを聞き、重耳こそ将来の強敵であると感じ、成王に暗殺を勧めるが、「彼には天の加護がある。天にさからうことはできない」と却下された。重耳は秦(しん)の庇護をうけて帰国、君主の座につく。彼こそが、春秋五覇(しゅんじゅうごは)(→p.108)の一人に数えられる、晋の文公(ぶんこう)なのである。
 後に城濮(じょうぼく)の戦いで楚軍と対戦した晋軍は、実際軍勢を3舎後退させて約束を果たした。この戦いでは晋軍が圧勝し、責任を取って子玉は自害した。
原典 重耳曰く、「即し己むを得ずして、君王与兵車を以て平原広沢に会せば、請ふ王をくること三舎ならん」と。[史記 晋世家]

 

次の故事