3、今川義元<概説>

 

氏輝、彦五郎の急死・花倉の乱
1536年3月17日、二人の兄氏輝と彦五郎が同時に死んでしまう。このことに関しては、はっきりした史料がないため原因は不明。家督は三男玄広恵探(げんこうえたん)、四男象耳泉奘(しょうにせんしょう)、五男梅岳承芳(ばいがくしょうほう)の内から決められることになった。しかし、象耳泉奘はどうしたことか家督争いに加わらなかった。そのため、玄広恵探と梅岳承芳で争うことになった。玄広恵探は、梅岳承芳より年長であったが、母親は氏親の側室である。それに対し、梅岳承芳は、氏親の正室中御門氏(寿桂尼(じゅけいに))である。当時、家督継承の順位としては年齢よりも、嫡出子か庶子かということの方が重要視されていた。そのため、梅岳承芳が家督継承者とされていた。しかし、「それではおもしろくない」として名乗りを上げたのが玄広恵探である。しかし、承芳側の軍勢が、恵探側の籠る花倉城を攻め、城を支えきれなかった恵探は瀬戸谷(せとのや)(藤枝市瀬戸谷)に逃れ、そこの普門寺で自刃して果て、花倉の乱は終わった。それから承芳は8月10日までの間に還俗し、義元と名乗った。最近の研究でわかったが、義元の「義」の字は、第十二代将軍足利義晴の一字をもらったものだ。

 

外交路線の転換 甲駿同盟
家督を継承した直後の動きとして注目されるのが、外交路線の転換である。氏輝のときは、「親北条・反武田」であった。しかし、義元が家督をついだとたん「親武田・反北条」となったのである。1537年に武田信虎の娘で信玄の姉に当たる女性を嫁として迎えたことで、甲駿同盟が結ばれた。北条氏綱の父早雲と、今川義元の父氏親とは叔父・甥の関係にあり、両者の提携によって今川氏も北条氏も勢力を拡大したのだ。このあと、同盟破棄を怒った北条氏綱が駿河に進攻し、駿河の内、河東という地域を占領してしまった。

 

三河、尾張への進撃
1545年、義元・武田連合軍が北条氏綱によって占領されていた「河東」地域奪回のため、吉原(富士市)まで出陣していた。北条氏では三代目の氏康に代わっていたが、対立の構図は変わっていなかった。両軍の対峙は7月からはじまっていたが、10月になって講和の動きが出てきて、結局氏康は駿河から兵を引き、しばらく平穏なときが続く。東が安泰なときを狙って、義元は西(三河方面)への進出を開始した。

そのころの三河であるが、三河は今橋城=吉田城を中心とする東三河と、岡崎城を中心とする西三河に大きく分かれていた。西三河を領する規模の小さな戦国大名として松平清康が独立した力を持っていたが、その清康が1535年の「森山崩れ」で、家臣の阿部弥七郎に殺されるという突発事件がおき、その子広忠が家督を継いだものの、岡崎城は一族の松平信定に奪われてしまった。(三河物語では、『清康が三十歳までも生きていたら、天下を簡単に手に入れられたのに、二十五歳を越えることなく、なくなられたのは残念である』とある。)広忠は一時、伊勢に亡命したりしていたが、1537年6月、義元の後押しで岡崎城に復帰する。ところが、この三河の内乱状態を尾張の織田信秀が黙って見過ごすはずがなく、1540年には、安祥城(安城市)が織田氏の手に落ちてしまう。今川軍は「織田軍に対抗する」という名目で三河に進駐し、ここに、三河松平領は今川氏の保護国となる。1548年3月の小豆坂(あずきざか)の戦いは、信秀と義元の、三河における覇権を争う最大規模の戦いであった。この戦いで今川軍が勝つが、松平家の当主広忠が23歳の若さで死んでしまい、事実上、松平領は今川領に併合されてしまう。

(小豆坂合戦は、上の年表にもあるとおり、『信長公記(しんちょうこうき)』では1542年とあるが、『今川義元のすべて』では1548年とある。『信長公記』は、信長の史料のなかでも一級史料である。それに対し、『今川義元のすべて』は作者がいろいろな史料を総合したものなので『信長公記』の1542年のほうが正しいと考える。これは自分が勝手に思ったことなので、正しいことはわかりません。)

 

甲相駿三国同盟の締結
義元の目が西に向いている最中、義元夫人が死んでしまう。同盟締結のあかしともいうべき義元夫人の死によって、信玄も義元も同盟が破棄することを一番心配していた。そこで同盟継続のために取り組まれた新たな政略結婚が、義元の娘の信玄の嫡男義信への輿入れであった。これで甲駿同盟は再構築される。そして、その直後に北条氏康と武田信玄との同盟、すなわち甲相同盟が具体化する。信玄・氏康の二人にとって、上杉謙信が共通の敵となっていた。そこで信玄の娘と氏康の嫡男氏政との婚約がなり、甲相同盟が成立する。

信玄を軸にしてみると、氏康と義元の同盟もなったようにみえるが、その時点では氏康と義元とは対立状態が続いていた。北条氏康の娘が今川義元の嫡男氏真に嫁ぐことによって、相駿同盟が結ばれることにより、ここに甲相駿三国同盟が締結する。この同盟の締結以後、義元は三河や尾張へ進攻していったし、信玄も川中島で上杉謙信との戦いに力を集中することができた。また、氏康が、武蔵から北へ力を伸ばすことができたのもこれ以降である。つまり、この三国同盟は、三武将にとってきわめて意義のある同盟だったことになる。

 

三河・尾張支配に専念
義元は三河からさらに尾張へと侵攻していったわけだが、織田信秀との戦いにおいて、実際に指揮を取ったのは雪斎であった。1549年11月に、三河の安祥城で戦いが起こる。安祥城は織田信秀の長男織田信広が守っていた。安祥城を攻める時、雪斎は、「織田信秀は殺さず、必ず生け捕りにせよ」と厳命した。命令どおり、信広は今川方の捕虜となったが、雪斎は、この信広と信秀のところに人質として捕らえられている松平竹千代(後の徳川家康)との人質交換を申し出ている。狙い通り、竹千代は今川方の手に取り戻された。これまでの通説だと、「竹千代が今川義元の人質になった」といわれてきたが、このあとの竹千代に対する待遇ぶりや、雪斎に竹千代の教育を依頼したことから、単純な人質ではなかったことが明らかであり、将来竹千代が自分の子氏真の右腕になるべく、育てようとしたのだろうと考えられる。1555年、雪斎の死は義元にとっては大きな打撃であった。何事も雪斎がとりしきっているためその後の困惑と混乱は大きかった。

1559年、義元は家督を子の氏真に譲った。そして、自ら三河支配、尾張侵攻に専念することになった。

 

目次