4、桶狭間の戦い(1560年)

 

1>義元の軍事行動の理由 上洛説の否定

 

@上洛説
やっとここから本題の桶狭間の戦いにはいりますが、これまでは、「義元が上洛して来た途中、尾張の桶狭間で信長に討たれた」という上洛説が主流であった。しかし、この説は現在否定されている。その理由は、第一に朝廷や京に何の働きかけもしていない点である。二万五千の大軍勢を京に向けて発進させるのなら、事前の混乱を避けるためにも何らかの根まわしをするはずである。しかし、京都側の史料や桶狭間の戦いのあった時期に比較的近い段階で書かれた史料にも上洛説を示す文書や上洛説に関係する文章は出てこない。第二に家督をこの氏真に譲っている点。これから天下に号令しようというのに、隠居してしまうというのはなんとも奇妙である。この二つの理由から、上洛説というのは、小説やテレビでうけるように流れていったものと考えられる。
A鳴海城―大高城確保説
では、上洛説が否定されたのなら、このときの軍事行動の狙いはなんだったのか。上洛説に代わって出てきたのは、「鳴海・大高城確保説」というもので、「この時点で義元にとっての喫緊事は、鳴海・大高城への補給と、織田方封鎖の排除であった」というものである。これは、尾張南部の鳴海・大高城が今川方の手に落ちており、このままではこの2つの城を拠点に一気に尾張を奪取されると思い、信長は丹下・善照寺・中島・丸根・鷲津の五つの砦(付け城という。敵城の近くに臨時に作る拠点)を設けて、鳴海・大高の補給線を断ち孤立させる戦法に出た、この動きに今川義元は、城の維持、確保のために兵を派遣する、という説である。「今川方の鳴海城奪取―信長の付け城による封鎖―救援(後詰)に出動する義元」という流れを踏んで桶狭間の戦いは起きたということをいっているのだ。これは、長篠の戦いなど、ほかにも類例が多い。それにしても二万五千の兵力を投入するのは少し大げさな気もするが、チャンスがあれば、一挙に尾張を平定しようと考えたのかもしれないし、兵力に関していえば、「救援は最大の兵力を持って目的を達し、すみやかに撤収せよ」というのが兵法の鉄則である。したがって極めて合理的だったといえる。
B尾張奪取説
その他にも、小和田哲男氏の尾張奪取説というものがある。この説は、織田信長を倒し、尾張を攻め取ろうとしたのではないか、というものである。この理由は第一に義元が二万五千という全力を投入して尾張に侵攻している点。第二にかなり大量の兵糧を大高城に入れており、長期戦になることが予想される点。第三に今川氏の力が鳴海・大高城だけでなく、伊勢長島に近い地域も今川方に落ちていた点で、信長を追い詰めていた点である。この三つの理由から、信長にとどめを刺すための出陣ではなかったのかと考えている。

 

結論
@の上洛説は否定されていて、Aが最有力候補である。自分的には、Bの説も悪くないのだが、なんせ小和田哲男氏が自分の本に載せているだけで、ほかの本に記載されているところを見たことがない(Aの説は、複数の本で紹介されています)ので、やはりAが可能性として一番高いと思う。

 

合戦の経過の様子
ここでは、桶狭間の戦いの様子がわかるように合戦の経過の様子を書くことにします。

5月18日、沓掛城に着陣した義元は軍議を開き、同日、松平元康(徳川家康)が大高城に兵糧を入れ、19日早朝から丸根・鷲津砦に攻撃することが決定。丸根砦には松平元康隊、鷲津砦には朝比奈泰朝(あさひなやすとも)隊が当たる。一方、丸根・鷲津はどちらも五百に満たない守兵である。両砦の佐久間大学や織田玄蕃から清洲の信長のもとへ「19日早朝援軍の来ないよう、潮の干満も考えて、攻撃してくるに違いない」との報告が来た。しかし、信長は軍議に関することはまったく言わず、家臣達を帰宅させた。

そして19日早朝、今川軍の攻撃が始まったとの報を聞くと信長は敦盛を舞い、立ちながら食事をして出陣。午前8時ごろ、源大夫殿の宮(上知我麻神社(かみちかまのやしろ))の前から、東に煙が上がっているのを見て丸根・鷲津両砦が陥落したとわかった。このとき従うもの六騎、雑兵二百あまりである。そこから丹下の砦、それから善照寺の砦へ到着。このとき今川義元は桶狭間山で人馬に休息を与えているところであった。さらに信長は中島砦へ進出しようとするが、「中島へは道が深田で一騎ずつしか進むことができず、少人数の様子が敵から丸見えなので、やめたほうがいい」と家老衆が言う。しかし信長はそれを振り切り、中島へ移った。この時信長勢は二千にも満たなかった。信長は中嶋砦から討って出ようとした。このときは無理にすがり付いてとめたが、信長は「今川の武者どもは、丸根・鷲津で戦い、疲労した兵だ。こちらは新手の兵である。『小勢だからといって大敵を恐れるな。勝敗の運は天に在る。』という言葉を知らぬか。敵が攻撃してきたら退き、敵が退いたら追撃せよ」と言った。信長が山際まで来たところ、突然豪雨となった。豪雨は敵のほうへ降りつけた。やがて雨が収まると、信長勢は今川軍と衝突。今川勢は慌てふためいて後ろへ崩れたった。「義元の旗本はあれだ。あれに向かってかかれ。」と下知があり、東へ向かって攻めかかった。義元は最初三百騎あまりが輪を作り、義元を囲んで退いていったが、四度五度返しあって戦ううち、次第に兵の数も減り、五十騎ばかりとなった。服部子平太は義元に打ちかかり、膝を切られて倒れるが、毛利新介が義元を切り伏せ首を取った。これより今川軍は総崩れとなった。(参考 信長公記)

 

2>奇襲説の否定

 

上の桶狭間の戦いの様子の記述を見て、疑問に思った人がいるだろう。この記述には「奇襲」の「奇」の字もないのだ。信長公記には奇襲のことなどは書いていないのだ。そもそも奇襲説はどこから出たのか。それは江戸時代に小瀬甫庵が著した「甫庵信長記」の中から出てくる。小瀬甫庵は事実を結果から逆算して書いたり、中には合戦をまるまる創作したり、とにかく史料価値が低いものなのだ。これが第一の理由。
第二の理由に信長が長島砦へ向かおうとする時に家臣たちに止められる記述をみれば奇襲や迂回、家臣たちは「中島へ行く道が深田で、少人数であることが今川方にばれる」ということを信長に伝えている。今川方にばれているのに、奇襲や迂回・攪乱作戦などを用いるのは笑止千万である。つまり、信長は今川軍に見られることを問題にしてなくて、奇襲作戦などは考えず、堂々と正面から攻撃したのだ。
第三の理由に今川本陣の位置や兵力などの情報がないこと。この時代、無線機などない。義元の位置を実況中継で知らせることなど不可能なのだ。中島砦から義元本陣まではわずか3キロなのに、なぜ迂回する必要があるか。迂回している間に義元が動く場合もある。迂回して攻撃するより、一気に強襲したほうが、可能性としてははるかに高いだろう。僕が読んだ山岡荘八の「織田信長」という小説にもあったが、信長が桶狭間で義元を討ち、誰が一番手柄を立てたか決める場面がある。そのとき、信長は、一番手柄を立てた人物に、今川義元に一番槍をつけた服部子平太でも、首を取った毛利新介でもなく義元本陣の情報を報告した簗田正綱(やなだまさつな)という人物だった。これを読んで、僕は、信長に感心してしまったが、残念なことにこの簗田正綱という人物は「信長公記」などの一級資料には見当たらず、存在したかすら怪しいのだ。しかも決定的なことに信長は「あの今川の兵は砦で戦って疲労した兵」といっているが、丸根・鷲津で戦った兵は大高城で休息していて、目の前の敵は新手の兵なのだ。信長は目の前の敵が新手の兵かすらわからないのだ。
しかし、この正面攻撃というのは、ある意味奇襲にもなる。奇襲作戦というものは、敵の防備が薄い場所や敵が考えに入れない場所を攻撃し、相手の動揺や混乱を誘う作戦である。そして、この桶狭間の戦いの場合、織田軍が今川軍に攻撃する可能性が最も低いところは、正面から攻撃することである。そんなことから、この桶狭間の戦いは奇襲で信長が勝利をもぎ取ったともいえないことはないだろう。

 

3>信長のねらい

 

では、この戦いで信長のねらいはなんだったか?僕が見たところ、説らしいものは二つある。一つは高度な情報収集により、義元本陣への奇襲というのがあるが、これはついさっきめちゃくちゃに否定した。もうひとつは義元本陣に限らず、どれか一部隊を叩いて、退却に追い込もうというものだ。実際、この作戦の例のような戦いに、銭ヶ岳の戦いというのがあったのだ。この戦いは、柴田勝家の先鋒、佐久間盛政の敗走したことで、後方の本陣に影響して勝家は北圧城まで退却する羽目になった。この作戦は、少数の信長軍が取る戦術としては、至極まともなものである。問題は叩く部隊である。その叩く部隊を、信長は、丸根・鷲津で戦い疲労した兵を攻撃目標にしたのだ。そうなると、丸根・鷲津が攻撃されるまで、信長が動かなかったこともつじつまが通る。見たところ、この一説しかなく信長が何を根拠に今川軍へ打って出て勝てると思ったのかは、はっきりとはわからない。

 

4>信長の勝因

 

信長はなぜ勝ったか?まず義元に落ち度はあったか。義元はこの戦いで、十倍にも満たない軍勢に討ち取られた愚かな武将という感じだが、義元は東海一の弓取りといわれ、智将なのだ。桶狭間は谷間だと思うイメージがあるが、「信長公記」にも桶狭間山に布陣とあるし、二万五千の兵力をつぎ込んだことからも義元の慎重さが見て取れる。よって義元に死角はなかったのだ。ではなぜか?研究はすすんできて、最近出てきた説もいれながらいろいろな説を見てきたが、決定的な証拠がないので、残念ながら勝因というものはわからない。今後の研究に期待したいです。

(桶狭間の戦いについて・・・完)

 

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