2、織田信長<概説>

 

信長誕生
1534年 嫡男吉法師(のちの信長)が生まれる。尾張で守護の斯波(しば)氏が守護代の織田氏に実権を奪われていたが、その織田氏も二家にわかれ、上四郡を領する岩倉城の織田伊勢守(いせのかみ)家と下四郡を領する清須城(愛知県清洲町)織田大和守(やまとのかみ)家が争っていた。信秀はもともと大和守家三奉行の一人にすぎなかった。しかし、経済力をたくわえ、政治力や武勇にも優れていたので、しだいに台頭してきたのだった。信秀は吉法師に林秀貞(ひでさだ)・平手政秀・青山与三右衛門(よそうえもん)・内藤勝介らをつけた。

 

信長、濃姫と結婚・父信秀没す
1548年(1549年という本もある)平手政秀の立案で信長を斎藤道三の婿として縁組がとり結ばれ、道三の娘濃姫を尾張へ呼び迎えた。そのころの信長の身なりは他人から見ればひどいものだった。そのころは世の中も上品なときであったから、信長を「大うつけ(馬鹿者)」と申す人ばかりであった。

織田信秀は疫病にかかり、1549年3月3日、42歳で、逝去した。信長はご葬儀に銭の施しをなされ、国中の僧衆も集まった。信長には、林・平手・青山・内藤らの家老衆がつき従う。弟の勘十郎(信行)には、家臣の柴田権六(勝家)・佐久間大学(盛重)・佐久間次右衛門(信盛)・長谷川(橋介)・山田(弥太郎)以下の者がお供する。信長がご焼香に立った。そのとき信長の身なりは長柄の太刀、脇差をわら縄で巻き、髪はちゃせんまげにしていた。信長は仏前へ出て、抹香(まっこう)をかっとつかんで仏前へ投げかけて帰った。弟の勘十郎は礼にかなったご作法であった。信長に対しては例のごとく、「大馬鹿者よ」ととりどりにうわさし合った。その中の筑紫から来た客僧一人だけが、信長を評して、「あの人こそ国持ち大名となるべき人よ」といったということである。このあと、平手政秀は信長の性質のまじめでない様子を悔やまれ、腹を切って自害した。

 

信行、謀反・稲生の戦い
信長の一番家老林佐渡守(通勝)・その弟林美作(みまさか)守・柴田権六らが相談し、3人で弟の勘十郎を守り立てようとして逆心を抱く由の風聞が聞こえてきた。信長はなんと思ったか、1556年5月26日に、信長と織田三郎五郎(信広)の弟の安房守(信次)という人とただ二人で、清洲より那古野の城にいる林佐渡守の所へ行った。織田三郎五郎(信広)とは、信長の腹ちがいの兄である。「信長に腹を切らせよう」と弟の林美作守が申すのを林佐渡守はあまりに恥ずかしいと思ったのか、命を助け、信長を無事帰した。

林兄弟の画策により、信長と信行の仲が悪化してしまう。信行は信長の直轄領の篠(ささ)木三郷(現春日井市)を押領した。さらに信行は、於多井(おたい)川(現庄内川)の際に砦を築いて川の東部も押さえようとしていたので、八月二十二日に信長は、川を渡った名塚というところに先に砦をつくり、佐久間大学に守備させた。翌二十三日信行方が名塚の砦へ柴田権六は手勢千人ほどで、林美作守は手勢七百ほどを率いて出兵した。二十四日、信長も清洲から出陣した。率いる兵は七百にすぎなかったが、彼らは信長が一から育て上げた親衛隊であった。両軍は稲生原(いのうはら)で激突した。信長はこの戦いで自ら美作を討ち取り、柴田・美作両軍をともに追い崩した。信長の母の懇請により、信長は信行を許したが、二年後、再び反抗の気配を見せたので、信長は彼を清須城に招いて謀殺してしまった。

 

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