長篠に散った勇将達

 

 長篠の戦い、それは武田ファンそして武田家にとっても悪夢のような戦いであった。かつては武田信玄のもとで「戦国最強軍団」と謳われた武田家もこの戦いを境に、じわじわと織田・徳川家に押され始め、ついに天正9年(1581年)に、遠江の天然の要害・高天神城(かつて信玄が2万の兵でも落とせなかった城だが勝頼が破竹の勢いで落とし、その武勇を内外に知らしめた)を徳川家に奪われてしまった。その後天正10年、織田軍が織田信忠を総大将に美濃から押し寄せると、木曽の木曽義昌の織田家への寝返りを皮切りに、家臣の離反が相次ぎ、さらに筆頭御親族衆の穴山信君までもが離反した。そして3月11日、ついに武田勝頼は天目山で自害し、武田家は滅亡するのである。嘆かれるのはその7年前の長篠の戦いで優れた武将を多く失った事である。勝頼とて優れた大将である。彼等が一致団結出来ていれば、まだまだ武田家は天下を狙えたと私は考える。かえすがえす無念で涙が出てくる。しかし彼等は、己の信念・武田家の行く末を考えて押し出し、長篠に散ったのである。一番無念だったのは華々しく散った彼等であろう。

 信玄没後430年を記念して、武田ファンの一人としてここにその勇将達を記すことで追悼の念を表したい。

真田源太左衛門尉信綱(さなだげんだざえもんのじょうのぶつな)

 武田二十四将に数えられる名将。平時は信州上田城に駐屯し上杉謙信にあたり、信濃先方衆として駿河・遠江の前線で主に活躍した。その父親は『甲陽軍鑑』に戦国の攻め弾正と謳(うた)われた真田幸隆で、彼は信玄が「戸石崩れ」で落とすことが出来なかった村上義清の支城・戸石城を謀略で落とすなど、武田家の勢力拡大に大きく貢献した。

 また弟に名将真田昌幸信綱死後家督を継ぎ、武田家滅亡後も真田家を守り、関が原の合戦時徳川秀忠軍を釘付けにした)がいて、その子が、「真田日本一の兵(つわもの)」真田信繁(俗書には幸村)である。

 信綱は親譲りといわれる武勇で、25歳の時川中島の合戦で旗本隊指揮した。永禄10年(1567)頃に幸隆から家督を継ぎ、信濃先方衆の旗頭をつとめて東海地方で戦った。1572年の上洛軍編成のときは奇襲・野戦を評価され先陣を命じられ、三方が原の合戦では徳川軍を撃破した。天正2年、信玄の後を追うように父・幸隆が病死するとその遺領を継ぎ、翌年の長篠の戦いには、次弟兵部丞昌輝と共に山県・馬場・内藤等武田家の重臣と同格で出陣し、最右翼馬場隊の横に布陣した。設楽原に構築された馬防柵めざして六文銭をなびかせ押し出して、名物「青江貞次」の陣太刀を振りかざして戦ったが最期は、弟昌輝と共に39歳で戦死した。信綱の事績を伝える資料は少ない。

山県三郎兵衛尉昌景(やまがたざぶろうびょうえのじょうまさかげ)

 武田家中屈指の猛将にして、合戦、戦略、外交、治安、内政とあらゆる面に優れた手腕を発揮し、信玄・勝頼の2代に仕えて武田の屋台骨を支えた名将。武田二十四将の一人であり、武田四名臣にも数えられる。その実兄、飯富虎昌は武田家の重臣で信虎追放の中心人物であり、甲山の猛虎と豪勇を謳われた猛将であったが、1565年、義信謀反に連座したため自害した。

 そのため信玄の近習・使番衆を経て、150騎の侍大将となっていた昌景は兄の兵を受け継ぎ300騎を預かる重鎮となり、甲斐武田譜代の名家、山県氏を継いだ。信玄子飼いののエリートである。板垣・甘利両雄亡き後、政治の最高機関である「職」を原昌胤と共につとめ、その後駿河の要衝江尻城代に就任、合戦では黒地に白桔梗の紋を染めた旗指物、配下は赤い軍装束に統一し「赤備え」として諸国に名を轟かせた。三増峠の戦い、三方が原の戦いなどあらゆる戦いの戦陣でも常に信玄を補佐して作戦計画を推進した。

 上洛作戦では5000の別働隊を指揮して活躍し、三方が原では先発隊をつとめて徳川軍を撃破し、家康をして「さても山県という者、恐ろしい武将ぞ、危うく命を落とすところであった」と言わしめたと『三河物語』にある。信玄から数多の感状を拝受したように、信玄の信頼はことさら厚かった。長篠の戦いには馬場美濃と共に老臣筆頭として出陣し、徳川勢と対峙するように最左翼の布陣した。猛将の名にふさわしく果敢に戦ったが、次第に犠牲を増やしていき、いったん人数を引き上げて一息入れようとしたところをむなしく銃弾に倒れた。46歳であった。

馬場美濃守信春(ばばみののかみぶはる)

 信虎、信玄、勝頼三代に仕えた譜代の老臣で、武田四名臣の一人。家中一同から雑兵にいたるまで全幅に信頼を寄せられ、一国一城の主となっても人後に落ちぬといわれた器量人・名将。歴戦の猛者と謳われ、合戦に出ること40年参加した合戦は数知れずといわれるが、ただの一度も擦り傷さえ負わなかったという戦巧者であり、勝頼の代に譜代家老衆の筆頭格となった。

 信玄の旗本組から1546年ごろに騎馬50騎の侍大将に登用され、その後民部少輔に任じられ馬場氏の名跡を継いだ。さらに1559年には騎馬70騎を加えられ、120騎の重臣となり川中島の合戦では別働隊を指揮した。豪傑原美濃守虎胤が死ぬと信玄に美濃守の名乗りを許され、その後500騎で信州・牧島城で越中・飛騨に睨(にら)みをきかせる一方、上杉謙信にもあたり、合戦では三方が原の戦いなど主要な戦いでは常に先陣を務めた。長篠の戦いでは最右翼に布陣して織田軍相手に奮戦するも、武田軍が壊滅的大打撃を受けて敗走すると殿(しんがり)を務め、勝頼を安全圏へ撤退させるまで持ちこたえたが、最期は討たれて戦場の露と消えた。61歳であった。

内藤修理亮昌豊(ないとうしゅりのすけまさとよ)

 もとは工藤源左衛門尉祐長といい、信虎時代老臣工藤下総守虎豊の二男である。父虎豊が信虎の勘気にふれて誅される事件が起こったことから、その類が一族一門に及ぶのを避けるため甲州を出奔していたが、信玄が信虎を追放して甲斐国守になると帰参して家臣団に復帰するとともに騎馬50騎の侍大将となる。

 武略に優れ代表的な戦いには必ず参加し、諸将に抜きんじた活躍を見せ、味方を勝利に導く軍功・功績をたて、歴戦の勇者となっていく。なぜか、信玄から感状を一枚ももらってないが、『甲陽軍鑑』によれば、信玄は「修理亮ほどの弓取りともなれば常人を抜く働きがあってしかるべし」と語ったという。1561年の川中島の合戦では小荷駄隊を指揮し(合戦において荷駄を守ることは非常に重要で、かつ忍耐の要るものであった)、武田本隊が苦戦すると、獅子奮迅の働きで劣勢を挽回した。川中島の合戦以降、武田典厩信繁が戦死すると、甲斐の副将格と目されるようになる。1566年、信玄が西上野の箕輪城を攻め落とすと、長野氏旧臣200騎を昌豊の組下とし、これで昌豊は300騎の将となり箕輪城代を任され、上杉・北条氏ににらみをきかせた。この頃内藤氏を継ぎ、修理亮を名乗った。1571年には北条氏との和睦・同盟の全権をゆだねられ交渉にあたり、三方が原でも先手として活躍した。長篠の戦いでは左翼に布陣し、織田・徳川連合軍の陣に押し寄せるも、損害が多く最期は討たれた。武田四名臣の一人。

原隼人祐昌胤(はらはやとのすけまさたね)

 昌胤の父、加賀守昌俊は信虎・信玄の二代に仕え、陣馬奉行という要職に就いていた。1549年、昌俊が死ぬと家督を継ぎ、120騎の侍大将になるとともに、陣馬奉行に就任した。陣馬奉行とは、合戦場において布陣する際、地の利・水の利など地形を見極めて、味方が有利に戦える場所を選定する役目のことである。合戦において陣取りは合戦の勝敗に大きな影響を及ぼすため責任は重大であった。しかし昌胤は父に劣らず陣馬奉行として卓越した才能を発揮した。陣馬奉行は常に本陣の隣にあって重大な役目を果たすため、直接合戦に参加することは少なかったが、数に劣る長篠の戦いでは左翼山県隊の横に布陣し、織田・徳川方を攻撃して銃弾を浴び、散った。

土屋昌次(つちやまさつぐ)

 1544年に生まれ、信玄の奥近習として仕えた。1561年、川中島の合戦で弱冠17歳にして信玄の旗本として初陣を飾る。その後22歳で騎馬50騎の侍大将に抜擢されると、28歳には100騎を任される信州先方衆七組の統率者となった。武田家中でも大きく信頼され、土屋の名跡を継いだ。特に三方が原の戦いなどで勇名をはせ、信玄死後には勝頼を支えたが、長篠の戦いで構築された「野戦築城」を攻めあぐんで、壊滅状態になったところを挽回しようと攻め込み戦死した。その弟の土屋惣蔵昌恒(つちやそうぞうまさつね)はその後も武田勝頼に付き従い、最期は天目山で追っ手の織田軍から勝頼を守ろうと勇名を馳せた後、討たれた。そして武田家は滅亡するのである。

三枝守友(さえぐさもりとも)

 甲斐の三枝氏は武田氏以前からの名族で、その祖先は平安時代、官支配の牧の管理者だったことから始まる。三枝守友は信玄・勝頼の二代に仕えた足軽大将である。はじめは信玄の奥近習6人の一人として出仕、川中島の戦いでは旗本組に属し、父の隠居後、騎馬30騎足軽70人の支配頭となる。さらに1564年の27歳のとき、騎馬56騎を預けられ、侍大将に列せられる。三増峠、三方が原の戦いなどで活躍し、山県昌景も守友の武勇を賞賛して吉光の名刀を与えたという。 勝頼に従って長篠の戦いに出陣して、信玄の弟の武田信実の副将として鳶ノ巣山近くに陣取ったが、徳川方・酒井忠次軍4000の奇襲を受け、奮戦虚しく戦死した。

武田兵庫助信実(たけだひょうごのすけのぶざね)

 武田信虎の七男で、信玄の弟。甲府の北、川窪によって、信州佐久郡川上口の警護にあたったため、通常、川窪氏を名乗った。騎馬15騎および浪人組の頭領であったという。長篠の戦いでは本隊が設楽原の決戦場に向かう後方守備のため、浪人衆・雑兵約1000で鳶ノ巣山砦を守備していたが、酒井軍の奇襲を受けて戦死した。その子孫は代々徳川家に仕えている。

 主だった武将は上に挙げたが、その他にも武田家のために多くの武将・兵達が死んでいったことを忘れてはならない。それにしても本当にすばらしい武将達が戦死してしまったものだ。彼等が存命なら武田家は天下を取れたに違いない。100歩譲っても、信長の天下統一は難しかっただろう。しかし彼等が長篠に散ったからこそ、戦国という時代が早く終わったのかもしれない。実に感慨深いと思いませんか。

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