歴史研究会が行く
〜長篠・設楽原編〜

 

 今回我々歴史研究会は長篠の戦いについて研究した。その中で、実地検分をしようという意見が出た。そういえば、去年『島津研究会でゴワス!!』をやった時、お客様から「実際九州に行ってみたの」と訊かれ、赤面した悔しさがある。それに今年はまだ時間がある。(2000年12月において)

 というわけで、当初予定していなかったのだが、長篠の戦いがあった古戦場に一泊二日で行くこととなった。計画は困難を極め、夜行電車・ムーンライトながらに乗っていく予定だったのが、指定席券をとりそびれ、(後で幸運だったと思った、その理由は後で)さらにやっているはずの国民宿舎がやっていないとか皆の電車の時間が合わないとか、沢山のハードルがあったが、どうにか4月1日(エイプリールなのに騙されなくてよかった。)の出発にこぎ着けることができた。

 我々は二手に分かれていったのだが、それを先発隊・後発隊と呼ぶことにする。先発隊は、5時ごろに大船駅を出発した。ここでさっきの夜行列車についてだが、それには重大な事件が起こっていたのである。夜行列車(といってもさっきの“ながら”と臨時快速と両方ある)のどちらかに爆発物が持ち込まれていたのである。もし、我々がそれに乗っていたら、少なくとも電車が遅れ、計画が大きく破綻してしまい、最悪の場合・・・・・・・・・。くわばら、くわばら。まさに九死に一生を得た思いである。
 それはいいとして、先発隊は青春18きっぷを手に5時頃大船を出発し、東海道本線を乗り継ぎ、乗り継ぎ、愛知県の豊橋駅についた。そこから飯田線に乗っていくのだが、乗ったのがトロッコ列車という窓と屋根がない列車で(なぜか快速)本長篠駅につき、そこから、長篠城駅についた。(ここは無人駅である、臨場感を出すために城の形をしているらしい。)(左は飯田線)
 それから長篠城址史跡保存館にむかった。その途中の道路にはバナナが落ちていたような気がする。10分ほど歩くと、駐車場が見えてくる。そこが史跡保存館だ。保存館は城の形を成している。
 史跡保存館(多分、大人400円)の中では、鉄砲の撃ち方や、長篠の戦いの至るまでの経緯、それに設楽原の布陣模型もあった。その他特別展があり、内容が時によって変わるのだが、確か武田信玄の肖像画があったような記憶がある。しかし、中は意外に狭く、すぐ終わってしまった。ここではかなりの資料が売っている。興味をそそられた同志は見本だけでも見てみるといいだろう。また古戦場を歩き回ってみようという強者は『長篠の戦い史跡案内図』がオススメである。保存館を出るとベランダのようなものがあり、そこから周りを一望できる。先発隊はそれを見た後、一旦長篠城駅に戻って後発隊と合流し、また二手に分かれ、設楽原歴史資料館見物隊(次の日そちらの方面に行くつもりだったが次の日は資料館が休みであると聞いて、人数を分けた)とビデオ撮影隊に分かれた。

 私は“見物隊”に属していたのだが、合流後、また飯田線上りに乗り、三河東郷(みかわとうごう)という駅を目指した。ここは設楽原決戦場があるところである。確認しておくが、織田・徳川連合軍はここ設楽原に陣を張り、長篠城包囲をしていた武田軍は勝算を見込んでここ、三河東郷附近に出てきたのである。そしてここで決戦が繰り広げられたのだ。見物隊は三河東郷駅につくと設楽原歴史資料館を目指した。

 その途中で「濡れ手に粟」とはこのことで多数の史跡を発見した。それが次の写真である。

 山県昌景(やまがたまさかげ)の墓は、三河東郷駅から設楽原歴史資料館の途中にある。名前が辛うじて読める。小幡の墓は歴史資料館の裏側で見つけたものである。これは少しひっそりしたところにあった。それから次に設楽原歴史資料館(月曜定休・おそらく大人300円)に入った。ここは5年前にできたところなので中は全然充実していない。広さだけあって中は大してなかった印象である。これも屋上から周りを一望できる。展示に失望して駅に帰る際に、今度は甘利信康(あまりのぶやす)(地元住民を武田の味方に付けようと尽力していたが、住民に裏切られ、激怒し立ったまま割腹自殺したという)の墓をみつけた。字が風化して読めない。道を歩いた感慨については後々話すから続けてくだされ。
 見物隊が資料館で見ている頃、撮影隊は任務を続けていた。城の北側の畑まで歩くと、馬場美濃守信春(ばばみののかみのぶはる)(信房とも)の忠死の碑がある。本当はここで死んだのではなく、もっと北の方で討ち取られたのだが、行くのが面倒臭く時間がないのでここでビデオ撮影となった。さらに川を渡り、城兵に信長の援軍を知らせて殺された鳥居強右衛門(すねえもん)の碑へ移動した。右に二つの写真がある。
 撮影隊はさらに足を進め、南側から城の先っぽの渡会(わたらい)といわれるところを写した。これが絶景でそして長篠城の堅固さを語っているといえよう。常識からいくとこちらから攻め方は攻撃できない。その隣は渡会の下か鉄橋を写したものである。これもなかなか味がある風景。
 絶景を見た後に撮影隊と見物隊は合流し、今度は詳しい長篠城探索にむかった。そう大きい城ではないのだが、二つの川に囲まれ、そこが断崖絶壁になっていてさらに土塁がつくられていたため、川の対岸からは攻めにくく、その合流点辺りは特に堅固であった。なので城兵は守備方向を北側(長篠城詳細図でいえば上側)に限定できた。実際対岸に渡ってみて、川を越えて攻撃する難しさを実感した。
 長篠城で撮影が終わった後、当初は予定していなかったのだが、鳶ノ巣山(とびのすやま)(武田軍が城包囲に残り、織田・徳川連合軍に強襲された陣地)に登ることになってしまった。我々はここで憤りを覚えずにはいられなかった。はじめ看板をみると、「鳶ノ巣山まで500m」。次の看板を見ると「鳶ノ巣山まで50m」よし、順調、順調。しかし問題は次だった。「鳶ノ巣山まで900m」おいおい、なんで増えているんだ!?回り道した覚えはないぞ。ここで皆さんやる気を失ってしまった。しかし、ここで引いたら日本男児ではない。力を振り絞っていくが登っていく、がなかなか目的地につかない。ようやく鳶ノ巣山につくと我々は力尽きて、へたれ込んでしまったのであった。おそらく武田軍もこんな思いだったのだろう。
 少し下ってから下を見てみると、長篠城中を一望できる。これは城兵の士気を下げるのに役立っただろう。ここは連合軍の強襲部隊に殲滅されているのだが、静かなこの地に立って、石碑を見ていると、合戦の模様が浮かんでくる。死んだ兵士諸君の冥福を祈りたい。  へとへとに疲れた我々だが、まだ行くべき所は残っていて、瓢丸(ふくべまる)を経たあとに、武田勝頼が本陣を構えたという医王寺(いおうじ)にいってみた。そこはひっそりとした寺だがご多分に漏れず親切に説明看板がおいてある。無礼にも中に入ってみたが何も見つからなかった。ここから長篠城は見えないが、本陣を構えるには格好の地だと思う。1日目はこれで終わりである。
 1日目は決戦の下ごしらえみたいなもので2日目が決戦場でメインである。この日はみなそろって、8時40分頃三河東郷(みかわとうごう)駅につき、探索をはじめた。ずっと太い道があってそこを上がっていくのだが、あたりは一面の田畑である。426年前の激闘を全く感じさせない。しかし、土地はほぼそのままで残っているらしく、臨場感はある。まあ、とりあえず歩いてみると、石碑が見えてきた。
 写真中に[竹広激戦地]とあるのだがここは連合軍右翼の徳川家康と武田の左翼部隊(山県昌景、内藤昌豊、原昌胤ら)が戦ったところである*。下の田園風景の写真の左手が武田の陣地である。田が見えるが、合戦当日ぬかるんでいたそうだ。そんな田畑をみていると騎馬突撃がないという思いにより確信が持ててきた。
 そんな思いを胸に家康が本陣を構えたという高松山(弾正山、断上山)にむかっていくと、[決戦場の碑]が見えてきた。なぜここにあるのか?もっと北にないのかと思いつつ更に東郷中学校を横切って(本当は公共地侵入はいけないのだが・・・)ゴルフ場を経て、家康本陣についた。(家康陣所コースを名がついているほどである。)山の上にあり、全軍を見渡すには格好の位置だと思えた。ここに家康とその重臣が並んでいたことが想像される。
 家康本陣から降りて行く途中に下の戦場が一望できるところがあった。下を見てみると、非常に感慨がある。(右写真)降りてから、さらに設楽原歴史資料館へ行く道へ戻ると、また山県昌景の墓が見えてきた。そこをさらに入っていくと山県昌景の碑があった。(左写真)ここは字がはっきりしていて読みやすい。山県何とかという時の隣になにか小さく書いてある。写真では見えないが「陸軍○将正三位土屋○○」と書いてある。何のこっちゃと思って考えてみると、どうも大正3年に建てられた史跡で陸軍が関連しているらしい。確か『日本戦史2・長篠役』(参謀本部)という本が出ており、陸軍が非常に熱心に勉強したということを聞いた。ということは陸軍がこの戦いを非常に重視し、現地に来る士官にわかりやすいように石碑までつくったのだろう。
 写真右は、連合軍と武田軍の中央部隊が激戦を繰り広げた柳田激戦地である。ここは山県の碑から設楽原歴史資料館へ戻り、少し進んで道を左に曲がると見つかる。別にそれだけなのだが、ここでビデオ撮影中に謎の轟音が聞こえた。連子川がすぐ後ろにある。
 ここが長篠合戦屏風の真ん中に流れている連子川(連吾川とも)だ。思ったより狭くこれは武田軍にとって対して障害にならなかったと思われる。川は緩やかに流れていた。まあここにも話題がないのだが、よく歴史資料に出てくるので撮影しておいた。さらに連合軍の陣地の方へ歩いていくと、柵が見えてきた。
 柵といっても、昔つくられたものと平成5年につくられた新しいもの(写真)がある(両柵は並んでいる)。我々は昔つくられた柵は大きいわりに信憑性がないと判断した。なぜなら武田軍が攻めてきたら、すぐ倒されてしまうほど脆弱だからである。ただ柵がおいているだけで他に何も見られない。これは鉄砲三段撃ちの肯定に他ならず、(それが虚構であることは述べた)信頼できない。それに比べて、写真の柵の方は多数の古文献に基づいている。これは柵だけではなく(見えにくいが)柵前の堀と柵の後ろの土塁がある。織田・徳川連合軍はこの防御施設を幾重にも重ね、「野戦築城」したと思われる。私は武田軍のマネをして柵に迫ってみた。すると10mも離れると堀が見えない。そのまま進んでいくと堀がみえ気づいたときには、柵が目の前にあるという状態である。堀にも実際落ちてみた。なかなか深くそこから前にすぐはいあがるのは少し難しい。武田軍も同じ事をしたのであろう。だが堀を飛び越えるのはできそうだった。

 柵を見た後に、太い道に戻って内藤昌豊の墓を目指したのだが、ここはちゃんとした道があるのにも関わらず獣道を選んでしまったらしく、後で後悔した。そこで我々の内数人がビデオ撮影に行った。その間は待っていたのだが花粉がすごくて、杉花粉の散る決定的瞬間を見てしまった。撮影隊が帰ってくるのをまって、武田勝頼が本陣を敷いたという才ノ神に向かった。ここで遠回りをしてしまったらしく余計な時間を費やし、我々一行は疲れてしまった。

 着いたと思ったら山道になっていて、それがまた長い。疲れもあって遠回りしているように感じた。ようやくついて撮影したのはいいのだがもう一つ最難関が残っていた。それは道の外れにある真田信綱の碑なのだがここも山道になっていた。途中にものすごい獰猛な犬がいて今にも鎖をちぎってやってきそうだったのを憶えている。真田兄弟の碑は山の上にあった。そこから下を見渡すと何も無いのだが、何故かしら真田兄弟の無念さが感じられた。
 最後に大宮・丸山激戦地というところにいった。ここは連合軍の左翼で武田軍の右翼にあたるのだが、そこが小高い山になっている。上ってみると、今まで進んできた道が一望できる。だいたいNHKなどがエンディングに使うのはここからとったシーンである。柵や川が見え、非常にいい景色である。ここに行く予定の人には是非オススメである。これで我々の長い2日間は終わった。
 以上で旅行を述べてきたのだが、これはただの旅行記ではない。この紀行文や写真をみてもらって、読者の皆様により理解を深めてもらうためである。私最後に行った大宮激戦地から三河東郷駅の間において感無量であった。2日史跡や墓を巡ってきた、その後で歩いていると、426年前の激闘が頭の中によみがえる。ここでは多くの名将が死んでいる。まさに「つはものどもが夢の跡」である。終わりにこの戦いで亡くなった勇士諸君の冥福を心から祈りたい。

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