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9、武田家の滅亡

 

 織田信長は長篠の戦で武田軍の精鋭を壊滅させた。これで東方からの脅威はなくなり、織田軍は天下を狙って進撃する。越前加賀の一向一揆を壊滅させ、雑賀衆を攻めて和睦(わぼく)、本願寺を開城し、毛利水軍を大船によって打ち破るなど、畿内とその周辺の国はほとんど制圧し、安土城も建設するなど、天下人への道を着々と歩んでいた。
 一方武田勝頼は、長篠の戦いの後、失った兵力を再び増強し織田・徳川の攻撃に備えていた。上杉謙信が死に、養子の上杉景勝(長尾政景の子)と景虎(北条氏康の子、武田の今川領侵略の時に謙信に同盟の際の人質として送られた)の争いが起こると、勝頼は、始め不利だった景勝を援助し、北条を孤立させた上で同盟に持ちこみ、「甲相越」の同盟を実現しようとした。

 しかし、景虎が景勝に敗れて自殺したため、北条は武田と断交し、織田・徳川と結んだ。上杉景勝は勝頼と同盟しているが、これも織田から越中への攻撃を受けていて救援に赴くことなど出来ず、武田は外交上孤立してしまった。

 さらに軍事面でも戦況は次第に悪化する。徳川家康には高天神・二俣城を奪われ、織田軍には要害として聞こえた美濃の岩村城を陥とされ、対織田の有力武将であった秋山信友を失った。

 また、勝頼は信玄が蓄積していた軍資金を使い果たし、金が大量に出た黒川金山の出も悪くなったため、庶民に重い税をかけてこれをまかなうほかなく、そのため自国の住民や家来にも信頼を失ってしまった。

 このような状況の中、1582年1月27日勝頼の元に木曽義昌が織田に寝返ったとの報がとどく。勝頼は直ちに討伐の軍を出すが、深い雪に阻まれてなかなか進軍できなかった。この時を待っていた織田信長は武田軍討伐の命令を出す。木曽口には織田信忠・滝川一益を先行させ自ら後に続き、駿河口には徳川家康、関東口には北条氏政、飛騨口には金森長近(信長の家臣)を命じ、一斉に攻めこんだ。

 武田軍はやむを得ず防衛線を引いたが、織田・徳川・北条の大軍の攻撃を受けることになる武田軍の士気は上がらなかった。木曽口では高遠城にこもった仁科盛信(武田勝頼の弟)が奮戦したが結局落城し、その他はほとんど戦いもなく織田軍は進軍した。また駿河口では駿河一国を支配する一門衆の穴山信君が徳川軍に降り、徳川軍はさえぎる物もなく、甲斐に乱入した。これらの敗戦の報を聞いた一門衆はみな自分の領地に引き上げてしまい、勝頼の新府城注に残った兵は1000に満たない小勢であった。

 この時勝頼は二人の武将から、自分の領地に移るよう勧められた。一人は信濃・上野に領土を持っていた真田昌幸、もう一人は甲斐の要害に本拠を置いていた小山田信茂である。勝頼は迷った末、小山田信茂を頼ることにした。しかし、この決断が勝頼の墓穴を掘る事になる。小山田信茂は織田軍に内応しており、勝頼軍が近付くと鉄砲を撃ちかけてきた。勝頼軍(当時はもう軍とは言えず、戦える者は近習など50人程であった)は天目山に上り、恩賞目当ての地侍に対し、必死に戦った。しかし、織田軍の滝川一益勢が到着すると力尽き、勝頼は嫡男信勝と共に討たれる。
その後甲斐に到着した織田信長は、武田の一門衆・主立(おもだ)つ家臣を皆殺しにする。

 (勝頼の側近=長坂釣閑(ちょうかん)・跡部勝資 一門衆=小山田信茂・武田信豊・一条信 竜 その他=高坂源五郎・馬場源四郎など)

 命を長らえたものは、木曽義昌(本領木曽に加え加増も)、真田昌幸(信濃上田・上野沼田領安堵)、小幡信貞(本領安堵)、穴山信君(同)ぐらいである。

 武田家の滅亡の原因としてよく挙げられるのが、穴山・小山田の裏切りである。確かにそれも一理あるだろうが、このような裏切りがなくても、武田家は滅びていたはずである。先ほど述べたような、外交・軍事・内政で全てに遅れを取る惨状に陥ったのは勝頼の先見性の問題かもしれない。最後も信濃・上野に本拠を持つ真田家を頼れば、上杉の力を後ろ盾として、進む事も退く事も出来、むざむざと滅びる事はなかったのではないか。勝頼の悲惨な最期が彼の国主としての能力の限界を象徴しているような気がする。

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