8、武田軍の敗走

 

 織田信長は武田軍の本陣に乱れが出たのを見ると直ちに攻撃を指示、朝からの乱戦で疲れ切っていた武田軍は一たまりもなく崩れた。武田勝頼は戦況が非常に不利で、武将がほとんど死んだと聞くと死を決し、突撃しようとしたが、周囲がこれを止めたため退却した。しかし、織田軍の追撃は急で、退却も困難であった。彼は土屋惣蔵(つちやそうぞう)・初鹿野伝右衛門(はじかのでんえもん)ら、近習数騎と共に信濃に向かって退却した。

 このように絶望的な敗勢の中、最後に踏みとどまったのは武田四名臣の一人、馬場信春(ばばのぶはる)と勝頼の旗本勢合わせて500余りである。彼は寒狭川(かんさがわ)左岸の猿橋まで勝頼と共に後退し、勝頼が無事に渡河したのを見ると引き返した。そして連合軍に突っ込んで全滅し、信春も首を取られた。

 武田勝頼らの退却は難航を極めた。書物には、「彼等は武田家相伝の旗や兜も捨てて逃げ、また、勝頼の馬が疲労して走らなくなってきたので、河西という侍が自分の馬を渡して、勝頼の馬に乗って敵に向かい戦死した」と書かれている。彼らは長篠から13里離れた武節城という城に入ってようやく休む事が出来た。

 この戦いで武田方で討ち取られたものは、『信長公記』によると

 山県三郎兵衛(昌景)・西上野小幡・横田備中・川窪備後・さなだ(真田)源太左衛門(信綱)・土屋宗蔵・甘利藤蔵・杉原日向・なわ(名和)無理介・仁科・高坂又八郎・奥津・岡辺・竹雲・恵光寺・根幹甚平・土屋備前守・和気善兵衛・馬場美濃守(信春)、

 らと内藤昌豊である。信玄に取りたてられた武将は 内藤・馬場・山県・真田・甘利・原などみんな壮絶な討ち死にを遂げている。彼らはみな信玄に恩義を感じていた。また武田家にも忠誠心を抱いていた。しかし、本当なら最も激しく戦うべき一門衆の武田信豊・一条信竜・穴山信君らはみな早々と退却している。彼らは勝頼の退却に対し力を貸そうともしなかった。

 信玄は、有能な人材は身分にかかわらず積極的に登用した。また、人材の育成にも力を注ぎ、彼の近習衆は多く後にひとかどの武将となっている。一方、一門衆に対しては領土を与えるなどそれなりに優遇はしたが、重要な作戦についての相談は自分が引きたてた人材と相談した。彼は、一門衆は自分の能力以上に大きな顔をしたがり、本当の忠誠心を持っているものは少ないという事を感じていたのである。

 勝頼は、長篠で敗戦を迎える。彼は、有能で大身の武将をほとんど失い、残ったのは一門衆と、先方衆(信濃の秋山・保科・諏訪・真田、上野の小幡、駿河の岡部・朝比奈らで、地元に勢力を張っていたが、武田に降伏・従属したもの)のみである。いずれも勝頼の支えとなるものではなく、このために武田家は滅亡に向かい始める。

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