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7、説楽原での激闘

 

鳶ノ巣山での戦闘

 5月20日午後8時頃、織田・徳川軍の陣地を出発した後方攪乱部隊は、南側に旋回し、21日の朝には、鳶ノ巣山の手前まで到達した。そこから攻撃するのだがそれを『信長公記(しんちょうこうき)』は

 五月廿一日辰刻(午前8時)取上り、旗首を推立て 凱声を上げ、数百挺の鉄?(どっ)とはなち懸け、責衆(せめしゅう)を追払ひ、長篠の城へ入り、城中の者と一手になり、敵陣の小足々々焼上げ、籠城の老忽運を開き、七首の攻衆案の外の事にて候問、*1忘致し、鳳来寺さして敗北なり。

 と記してある。七首の攻衆とは、武田信実(信玄の弟)、三枝守友(さえぐさもりとも)、飯尾助友・五味貞成、名和無理介(むりのすけ)、和田兵太夫らである。彼らは鳶ノ巣山周辺を守っていたのだが、午前8時頃、酒井忠次率いる後方攪乱部隊はそこに午前8時頃、鬨の声をあげ、数百挺の鉄砲を放って、攻撃を仕掛けた。ここにはすぐ「責衆を追払ひ(武田城攻衆を撃退して)」とあり、直ぐ追っ払ってしまったようだが、実は武田方もよく戦ったようである。諸書によれば*2、酒井の兵は一度占領したが、再び武田方が奪い取り、さらにそれを酒井が奪い返したという有様であった。こうして、鳶ノ巣山の砦を落とした後方攪乱部隊は長篠城の兵と一手になって、城の西にのこされていた武田軍を攻めた。そこで鳶ノ巣山周辺の君ヶ伏戸(きみがふしど)・中山などの拠点も落とし、武田方の小屋を焼き払った。この城兵と後方攪乱部隊の攻撃によって、城の西側にいた高坂昌澄(こうさかまさずみ)が討ち死にし、連合軍側でも松平伊忠(これただ)も戦死した。

 問題はこの強襲がはじまった時刻で、午前8時と記しているのは『信長公記(しんちょうこうき)』だけで他の『当代記(とうだいき)』などの書物には未明、真夜中としるされている。これについては詳しくは論議できないが、ここでの選択は、鳶ノ巣山攻撃の意味を探るものとして重要な意味をなすから、一つの見解を示しておこう。

 まず設楽原では午前6時から戦闘が始まっている。その前、つまり未明や真夜中ならば、この鳶ノ巣山攻撃によって武田軍が出ていった、ことになりそうだがやはりこれはあやしい。何故ならどうもこれは鳶ノ巣山攻撃を過重評価するための方法ではないかと考えられる。先にもいったように鳶ノ巣山攻撃は後世いわれるほど効果が大きかったわけではない。決戦開始のあとならば、途中で士気をくじくなどの理由が挙げられる。ただ、未明説や真夜中説をを取る本は『当代記』を除けば、全て悪書であって、ここでは『信長公記』の「午前8時」という記事の方が信頼できる気がする。

激闘開始

史料を追っていくだけではわかりにくいので、時間別にシミュレートすることにした。

5月21日午前6時 小競り合い開始

 この時間から戦闘が始まったようである。『信長公記』によれば戦いは「日出(ひので)」からとあり、故高柳光寿氏も午前6時からはじまったとしている。我々もこのように考える。ただ、この時はまだ小競り合いだったと見る方がいい。武田軍だってそんなはじめから総攻撃をかけたわけではないだろう。しかし、この小競り合いについてはすぐ終わってしまう可能性もある。両者がまだ攻撃するときではない、と考えた場合である。(例えば、相手が誘っていると見えたときは引き上げるのが常道である。)

午前8時 鳶ノ巣山陥落

 さきほどいったように鳶ノ巣山に攻撃が仕掛けられたのは、午前8時のことである。つまり、もう設楽原では小競り合いが始まっていたのである。織田・徳川連合軍の後方攪乱部隊に対し、武田の守備隊もよく守った。が、多勢に無勢で撃退されてしまう。周辺の拠点も落として、長篠城兵と一手となり、城の西にいた武田軍を追い払った。要するに小競り合いという戦闘の初期段階において、鳶ノ巣山という後方拠点を落とし、武田軍の背後を脅かしたのである。

午前11時頃 設楽原で戦闘が本格化

 さて、鳶ノ巣山陥落時とその後に連合軍は何をしていたのであろう。またまた出てくるが、『信長公記』によれば、

 信長は家康陣所に高松山とて小高き山御座候に取上られ、敵の働を御覧じ、御下知次第働くべきの旨兼てより堅く仰含められ、鉄炮干挺ばかり
 佐々蔵介・前田又左衛門・野々村三十郎・福富平左衛門・塙九郎左衛門、
 御奉行として近々と足軽懸けられ御覧候。前後より攻められ、御敵も人数を出し候。

 とある。口語訳すると、信長は家康が本陣を敷いていた、高松山というところに移動し、指示に従って動くように厳命し、佐々成政(さっさなりまさ)をはじめとした5人の奉行を任命し千人ほどの鉄砲隊を編成した。武田軍も前後から(連合軍本隊と鳶ノ巣山攻撃部隊)攻められ、攻撃してきた信長は合戦に先立ち、極楽寺山(ごくらくじやま)から家康がいた高松山に移動していたのである。この鉄砲隊はおそらく信長直属の鉄砲隊であろう。

 さて、ここで武田軍が攻撃してきたとある。これには諸説があって、正直なところ困惑している。まず信長の家臣・佐久間信盛(さくまのぶもり)が途中で裏切る、という情報を手にしたからというのは誤りである。そうではなくとも、おそらく敵の策には簡単に引っかからなかっただろう。また勝頼が慢心していたからともいわれる。なぜなら諜報活動については記録がないからである。しかし慢心していたなら、陣をはってから直ぐ攻撃を仕掛けたはずである。もう一つ鳶ノ巣山が陥落したから、前にした軍を破るしかなくなったというものもある。ここは正直いってよくわからない。だいたい午前6時から本格的戦闘が始まっていたという人は勝頼は慢心していた、と結びつけてしまうし、鳶ノ巣山攻撃の後に戦闘が激化したという人はその攻撃を重視しすぎる傾向にある。なのでよくわからないが、これは史料がほとんど無いので何ともいえない。

 そこを承知であえていわせてもらえば、武田軍は鳶ノ巣山攻撃を知っていたのかもしれない。そこで相手が兵力を分散させたと知って手薄だと考えて攻撃した可能性もある。武田勝頼(たけだかつより)は鳶ノ巣山が陥落したのを聞いて、別働隊をわけ、連合軍の後方攪乱部隊を殲滅する方法を考えたかもしれない。だがそれはもともと武田軍は連合軍の兵の三分の一しかなかったから各個撃破にされておそれがある。両方だめになってはまずい。少し空想に走ってしまったようだが、ここは記述がないから論証ができない。ここは読者の皆さんは自由に想像してほしい。それは藪の中だがとにかく武田軍は総攻撃を開始した。

 『信長公記』にも鳶ノ巣山陥落の後だから、おそらく午前11時ころの事だと考えられる。

武田軍の波状攻撃(午前11時〜午後2時)

 ここも『信長公記』や『甲陽軍鑑』によると、どうも左翼の山県隊から攻撃が始められたようである。抜き出してみると一番、山県三郎兵衛、*3推太鼓を打つて懸り来り供鉄炮を以て散々に打立てられ引退(ひきのく)。

 となっている。武田軍左翼の山県隊は連合軍右翼の徳川隊に攻撃を仕掛けた。しかし、徳川軍の鉄砲隊によって撃退されたようである。左翼ではこの後に原昌胤、内藤昌豊らが兵を率いて攻撃を繰り返したようだ。(布陣図参照)さて、ここで徳川時代に書かれた書物(『改正三河後風土記』など)には非常に都合よく書かれていて、徳川軍だけが柵を出て戦ったとある。だが、少し待ってほしい。ある部隊が柵を出たら味方に当たってはいけないから鉄砲射撃はできない。だから直ぐ戻らなければならない。しかし、そんなにすぐ戻れる柵ならば武田軍にもすぐ破壊されていたであろう。さらに徳川方が勝楽寺方向に旋回したようにかかれているが、確かにそこは平地であるが、あまりに範囲が広すぎる。なのでこれは後世の誇張だといえるだろう。さらにすごいのは徳川軍が一〇町ほど前に出た、という記事でそんなことをしたら武田軍を突き抜けてしまう。

 さて、連合軍右翼では戦闘が始まったが、中央と左翼でも同じようにはじまっていた。中央では二番に*4正用軒、入替、かゝればのき、退ば引付、御下知のごとく鉄炮にて過半人数うたれては其時引入るなり。三番に西上野小幡一党、赤武者にて入替り懸り来る。関東衆馬上の功者にて、是又馬入るべき行にて、推太鼓を打つて懸り来る。人数を備へ候*5 身がくしをして、鉄炮にて待請けうたせられ候へば、過半打倒され無人になつて引退く。四番に典厩一党黒武者にて懸り来り候。かくのごとく、御敵入替へ侯へども、御人数一首も御出しなく、鉄炮ばかりを相加へ、足軽にて*6会釈、ねり倒され、人数をうたせ引入るなり。

 (口語訳)  信廉の部隊は入れ替え入れ替え、攻撃を繰り返し、織田軍が攻めれば退き、退けば攻撃してきたが信長の命令通り鉄砲で多数を撃たれたので退いた。小幡隊 も入れ替わり攻撃しましたが、織田軍は例の身がくしの後方に隠れ、鉄砲を構 えて待ちうけた。同じように鉄砲で多数を撃たれて退いた。武田典厩隊も入れ 替え入れ替え攻めてきたが、織田方は鉄砲隊だけで戦い、これもまた多数を撃 たれて退却した。

 「二番に」とか「三番に」とか番号が書いてあるが気にしなくていい。これは武田軍を連合軍から見て右側からならべたもので、一番右の山県隊から攻撃を始めたのでそう書いたのであろう。だから一番以外に順番は適当である。)ここでは武田信玄の弟・逍遙軒(しょうようけん)信廉や、西上野の小幡一党、勝頼の従兄弟・典厩信豊らが、「入替」という表現があるとおり、入れ替え入れ替えつまり波状攻撃を繰り返していたことになる。ここで思うのが、この「入替」という言葉が『甫庵信長記』の三段撃ちの記事に出てくることである。おそらくこれは甫庵がこの入れ替えの意味を鉄砲隊の意味だと勝手に考えて筆を走らせたものだとも推測できる。または武田軍に対抗しようとしたのだろうか。ちなみにここの連合軍の武将は佐々成政らの五奉行と羽柴秀吉・丹羽長秀らである。

 多分連合軍右翼でもそうだったと思うが、ここには「身がくし」という言葉が出てくる。これは土塁のことである。先ほどもいったように、連合軍陣地には堀、柵、土塁が三点セットが三段も備えられていた。そこに鉄砲隊が土塁の後ろで待ちかまえている。実はこの堀というのが、一〇mも離れると全く見えない。そしてこの戦場では鉄砲をつかったため、轟音と多くの煙が立ちこめたようである。おまけにこの日には霧がかかっていたらしく、前がよくみえなかったようである。前進した部隊は堀に落ちて土塁の後ろから鉄砲に撃たれる。後方の部隊はそれが見えないのである。なので後方の部隊も波状攻撃を繰り返してしまったようである。いずれにしろ、中央の武田軍は、連合軍が野戦築城した三点セットの「陣城」を越えられず損害を増やしていった。

 また、「御敵入替へ侯へども、御人数一首も御出しなく」とあるように柵から外に出ないように信長が厳命したようである。さて、連合軍左翼では

 五番に馬場美濃守、推太鼓推にてかゝり来り、人数を備へ、右同前に勢衆うたれ引退く。

 とある。その他の書物を総合すると馬場美濃守信春、真田源太左衛門兄弟・土屋昌次らが連合軍左翼の佐久間信盛・水野信元らに波状攻撃を加えていたようだ。『甲陽軍鑑』によるとこれら右翼部隊は三重柵の内、二つ破ったが、「さながら城攻めのごとく」であったので敵が多勢で武田方が多くが撃たれたとある。この記事で注目したいのは武田方が柵を破ったということである。連合軍はおそらくは三点セット(堀、柵、土塁)が破られそうになると、後ろの三点セットににげこんで、敵を誘き寄せて、攻撃したを思わる。ただここでも「陣城」を破ることができずに武田軍は損害を増やしていった。

 総合的に見ても武田軍は波状攻撃を繰り返し、死傷者を増やしていった。その中で連合軍右翼を攻撃していた山県昌景が引こうとするところを撃たれ、討ち死に。土屋昌次・真田源太左衛門兄弟も討ち死にした。

 また以上のように「鉄砲」とか「撃たれ」とかがよく出てくる。三段撃ちはありえないものの、鉄砲を効果的に使ったのは事実だったようである。

 午後2時頃になると武田の損害は、耐えきれなくなるほどになり、敗走兵が勝頼の本陣に集まってきた。そこで勝頼は退却を決意し、退きはじめた。

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