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6、両軍の布陣と奇襲作戦

 

織田・徳川連合軍の布陣と馬防柵

 さて、5月15日に鳥居強右衛門(すねえもん)の知らせを聞いた、織田・徳川連合軍は更に前進し、17日に野田原(愛知県新城市)につき、18日に、織田信長は志多羅(したら)(設楽)の郷の極楽寺山(ごくらくじやま)といわれるところに布陣した。信長は嫡子の秋田城介信忠はその北方の新御堂(にいみどう)山に布陣した。この設楽の郷は、一帯に平地で、所々に丘陵、窪みがあり、そこに連合軍はだんだんと軍を押し進めた。武田軍に見えないようにそうしたという。先陣は徳川家康(とくがわいえやす)の兵であって、ころみつ坂を登り、高松山(弾正山(だんじょうやま)。断上山(だんじょうやま)ともいう)に陣取った。(『信長公記』より)

 さて、ここなのだが織田信長が極楽寺山だけではなく、茶臼山(ちゃうすやま)にも布陣したと地元ではいわれている。だが、これは江戸時代の価値の低い史料のいうことで信頼はできない。茶臼山という言葉は出てこないのである。もしそこに布陣したとしてもそれは決戦直前に少し布陣したようなもので、信長本陣は極楽寺山にあったようだ。家康の陣地は最前線にあり、両者の地位がよくわかる。

 信長はさらに滝川左近一益(たきがわさこんかずます)・羽柴筑前秀吉(はしばちくぜんひでよし)・丹羽五郎左衛門長秀(にわごろうざえもんながひで)もその北*1に布陣させ、東向きに「馬防(うまふせぎ)の為柵を付けさせられ」たようである。この布陣場所は北と南を山に遮られた3qに満たない狭い地域に戦線を引いたのであった。(連合軍の布陣についてはp.28参照)この柵について、地元の史料『三州長篠合戦記(さんしゅうながしのかっせんき)*2』には以下のように記してある。

 武田勢は馬上の達者、戦いなかばに馬を乗り入れ、敵陣を馳せて破ると聞いているので、これを防ぐ為に織田・徳川両陣の前に柵を設けました。まず、南は川路村連子橋より、竹広・柳田の辺、北は宮脇・森長・浜田まで、小川をへだ てて廿四町(一町は凡(およ)そ一〇〇m)の間に、二重・三重乾堀(かわきぼり)を掘って土居を築き、五十間、三十間(一間は凡そ一・八二m)ごとに虎口(こぐち)を設け、目通り 一尺(凡そ〇・三m、目の高さの円周)ほどの木をもってを付けました。そして両家の諸軍は、黒口・常延・実国・牛倉・川上・夏目・重広・設楽等の 村にわたって堂々の陣を設けて・・・・

 ここに書いてあることはおそらく嘘ではあるまい。なぜなら、信頼性の高い『信長公記』にも「身がくし」という言葉が出てくる。これは土塁・土居の意で、これは間違いないと思われる。柵も同じくである。この柵木については信長が岐阜から運ばせたという記事もあるが、地元で切ったものをつかったと見てもいいのではないかと考える。世にいう「馬防柵」であるが、これは武田方に騎馬隊がいたことを示すのではなく、追撃に備えて築いたものである。(堀についてはよく分からないが、土塁をつくるときに掘ったのであろう。)虎口というのは、柵の出入口のことでこれが50m、90mごとに設けられたという。

 つまりどういう事かというと、堀・柵・土塁を三点セットにして二重にも三重にも構築したということである。これをNHKでは「陣城(じんじろ)」と呼び、この「陣城」をつくることを「野戦築城(やせんちくじょう)」という。だから三段にされていたのは、鉄砲隊ではなく、この三点セットだったのである。その土塁に隠れて鉄砲を撃ったと考えられる。攻撃した武田側の『甲陽軍鑑』にも「さながら城攻めのごとく」という記述が出てくる通り、一種の攻城戦だったといっていい。当時の城というと安土城の壮大な城を想像するが、この時代のほとんどの城は石垣もあまりなく、空堀や土塁をめぐらし、柵や塀を設ける程度だったから、この記述はデタラメでないといっていい。

 さて、この柵については信長の発案だといわれているがどうもそうではないようだ。実はヨーロッパでこれより70年以上前の1503年にスペインのゴンサロ・デ・コルドバがこれと同じような野戦築城をしてフランスのナミュール相手に戦い、見事破っている。信長は宣教師などを通してこういう知識を仕入れていた可能性が高い。好奇心の強い信長が、肝心の軍事面についてヨーロッパはどうだ?と聞かないとは思えない。このような方法は長篠の合戦以前から雑賀衆などが行っているから、別に信長が初使用ということはない。彼らと戦ったことがある信長はこの戦法の威力を知っていたのであろう。

武田軍の前進

 このように布陣したのが5月18日のことである。さて、長篠城を包囲していた武田勝頼は14日からは手をゆるめ*3連合軍前進の報を請け、出ていくかどうか論議になったようだ。だいたいここでよくいわれるのが、武田の老臣と勝頼側近の争いが表面化したことである。『甲陽軍鑑』によると、側近側の代表・長坂釣閑斎が「武田家は始祖以来、敵を見て引き籠もるということは一度もない。そこでこのめでたい先例を勝頼が破るということはどうかと思う。」というのに対して、老臣の代表・馬場信春(ばばのぶはる)、山県昌景(やまがたまさかげ)らが「味方は相手の三分の一だから、この度は退却して信長が帰国してから、再度出張して、諸所に放火し、そのうえ刈田などをしたならば、目的を達するだろう」と言った、という記事である。非常にドラマ的なシーンなのだが、これが間違いである。実は長坂釣閑斎はこの時、三河つまりこの場にに来ていないのである。*4だから、釣閑斎が決戦を主張したのは間違いである。しかし、このような議論がされた可能性がある。なぜなら自軍の三倍もある敵*5に対して攻めにいくことには兵法上問題があるからである。

 結局主戦論が押し切り、前進することに決まったのだが、これは別に慢心していたということではない。また、信長の寝返り工作にはまったというが、これも信頼できない。それは信長配下の佐久間信盛(さくまのぶもり)が長坂長閑斎に使いをやり、決戦をはじめればその半ばで裏切るから、と言った、というものだが、まず長坂釣閑斎自体ここにいない。その後佐久間が改易されたことからさかのぼっていっているのであろう。ただ、佐久間ではないが信長がこういう工作をしたことは充分考えられる。なぜなら連合軍の「野戦築城」は敵がでてこないと意味がないからである。また、勝頼には勝負を決したかったという思いがあったのではなかろうか。この合戦の近年(1575年の1,2年ほど前)、勝頼はしばしば家康、信長に決戦を挑んでいるが*6、すべて肩すかしをくらっている。

 ただここに出ていったにはそれなりの覚悟、勝算があったに違いない。もちろん突撃しようとして出てきたわけではなく、長期戦も考えていたようだ。そんなわけで武田軍は鳶ノ巣山(とびのすやま)などにわずかの将兵を残し、本隊は寒狭川(かんさがわ)をこえ、5月19日から20日にかけて設楽原に西向きに布陣させた。両軍の間は2qほどであった。武田軍左翼には山県昌景・内藤昌豊(ないとうまさとよ)らが陣し、中央には武田信廉(のぶかど)ら、右翼には馬場信春・真田兄弟らが布陣した。勝頼は後方の才ノ神(さいのかみ)に陣をかまえた。 これで両軍とも布陣完了である。

両軍の後方攪乱作戦

 5月20日これで役者がそろったわけだが、武田軍は陣を構えただけで攻撃し しようとはしなかった。こちらも陣地に土塁*7などを築き、迎撃体勢と長期戦体勢をつくってしまった。その中で両首脳は、自信満々の態度を見せている。特に勝頼の態度など「敵がちぢこまっている*8」と表現しているほどである。この間に両者の駆け引きはすさまじいもので、相手の部下を抱き込んで偽情報を流したり、おびき出そうとしたりしているのである。結果それに両者とも応じず、膠着状態におちいったわけである。

 5月20日そこで織田・徳川連合軍は、相手の後方を攪乱する方法を考えた。 敵の後方にあって、長篠城を包囲している鳶ノ巣山の砦と周辺の砦を強襲することである。これが世にいう「鳶ノ巣山の奇襲」なのだが、その発案者については各論がある。最近注目されはじめているのが次にあげる話である。

 5月20日の夜、信長の本陣で軍議が開かれたがそこで家康の重臣の一人、酒井左衛門尉忠次(さかいさえもんのじょうただつぐ)が「鳶ノ巣山にある敵の砦を攻めてはいかが」と信長に意見したが信長はその作戦を「その方は、三河・遠江の小競り合いには慣れておろうが、このたびは、相手も万を越える大軍。そのような手は通用せぬ。」と一蹴(いっしゅう)してしまったのである。恥をかかされた忠次が陣に戻ると、信長から使者が来てすぐ来てほしいという。また叱責されるかと思って行ってみると、信長は態度を180度翻して、「鳶ノ巣山砦を攻めるというのは 実にも見事な戦術である。ただ、軍議の席でそれを決すると、敵に内通している者がいた場合、敵に筒ぬけになってしまうおそれがある。そのため、先ほどはあのように非難した。鳶ノ巣山砦奇襲作戦を採用する。味方にも気づかれないようただちに出陣せよ。」と命令され、出陣した。

 というものである。*9しかしこれはどう見ても無理がある。まず史料的裏付けが全くない。当時書かれた信頼性の高い史料にはこんな茶番劇は一言も書いていないのである。書いてあるのは徳川が天下をとった後の書物だけである。そもそも会議そのものが秘密であるのにそれをまた秘密にする必要はないはずである。そして敵にわからないようにとの事だが、鳶ノ巣山の守備隊はそれに備えて置かれたのであって、攻撃計画を知っては困る、などと考えるはずがない。

 『信長公記(しんちょうこうき)』には信長が味方の損害が出ぬように酒井を呼び、徳川軍の中から弓や鉄砲の巧みなものを選抜した2000人ほどを編成し、酒井を大将にした、と書かれている。そこに信長直属の鉄砲隊500人に金森長近ら4人を検使にして添え、部隊を編成させたとある。おそらくこれが実態であろう。『大須賀記(おおすかき)*10』によると午後8時頃陣地を出発したとみられている。

 江戸時代の書物は徳川方の武将が出てきているから、その攻撃の重要性を説くのに必死である。例えば、鳶ノ巣山でのろしをあげたら主戦場で戦闘をはじめる、とか先ほどの酒井の記事の類である。前者の方は他の史料からいってありえない。(後述するが、戦闘開始の方が鳶ノ巣山攻撃よりもはやい。)どうも効果を大きくいって勝敗を左右したようなことを言いたいらしいが、別にこれが成功していても極端な話負ける可能性もあったわけである。この勝利は連合軍の野戦築城によって語られるものであって、鳶ノ巣山攻撃は膠着状態を解除するためのものである。だから失敗した場合にはこのままにらみ合いを続ける可能性もあったわけである。どうも徳川方の書物はこれを過大視しすぎている。これは江戸時代に人々がものの力というものを知らなかったからだろう。

 だが、実は同じ事を武田軍も考えていた。後方にまわって強襲しようというのである。これは『三河国軍物語』*11に出てくる話だがそれによると5月20日、鳶ノ巣山攻撃と同じ日に甘利信康(あまりのぶやす)・浦野幸久(うらのゆきひさ)らに率いられた奇襲部隊が後方の牛久保城むけて発進した。武田軍は南側が徳川方の土豪が支配しているので、北から進撃したらしい。(鳶ノ巣山攻撃は南からである)それから前ページの図の通り進撃したが、牛久保の手前、宝川というところで牛久保守備隊に強襲された。この奇襲に武田軍は耐えられず、あえなく退却。武田方の作戦は失敗した、という話である。人数はおそらく多くても1000人ほどだっただろう。ただこの話は史料的根拠が乏しすぎる。だからこの強襲があったかどうかは分からない。だが、こういう企画があったことは確かだろうと考えられる。武田方だって膠着状態でのにらみ合いをずっと続けることはできなかったのだから。しかし、それがあったとしてもなかったとしても、それが成功をみることはなかった。つまり武田方の後方攪乱作戦はうまくいかなかったわけである。

 これで武田方の攪乱は失敗し、連合軍の計画は進行中だが、はたしてどういう展開を見せるのか。決戦はいつはじまるのか。それは次頁で。

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