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5、長篠城の攻防

 

@ 長篠城の情勢

 作手城主の奥平貞能・信昌親子は、信玄亡き後の武田家に見切りをつけ、ひそかに徳川に内応の意志を示していたが、その噂が広がり、勝頼の従兄弟武田信豊が親子を呼び寄せた。彼らはその場を言い抜けると作手城をすぐに脱出した。徳川家康は彼らを厚遇し、調略によって奪い取った長篠城を信昌に与え、他にも領土を与える約束をした。長篠城は武田軍に対する最前線の城であり、武田家に叛いた彼は再び敵に降ることは出来ないため必死に戦うだろうと思っての措置であった。

 天正3年2月、長篠城は奥平信昌を城主として、松平景忠・同伊忠らを加勢として二の丸に入れた。そして3月には織田信長から近江の米2000俵を贈られたので、家康はそのうち300俵を長篠にやり、篭城に備えた。また、信昌に命じて、長篠城を修築、規模も拡張させた。このようにして、長篠城は武田軍の三河攻略を阻止する重要な前線の城として位置付けられたのである。

A 長篠城包囲と吉田城襲撃

 天正3年4月、武田勝頼は甲府を出陣した。武田軍は、足助口・鳳来寺・平山越えなど各方面から進撃し、足助口から作手、野田へ出た。そして吉田・二連木を蹂躙した後、引き返して4月21日に長篠城を囲んだ。(その時の兵力は大抵の本には27000人と書いてあるが、長篠の戦いの時にこれほど動員していない事を考えると、これは武田軍の動員できる最大兵力であり、上杉・織田に対する備えなどを差し引いたものが実数と考えた方がよいであろう)

 包囲して後方を固めた勝頼は、吉田城にいる家康を誘い出して壊滅させようと思って、5月6日、長篠から兵を進めて二連木・牛久保を攻略し家康がいる吉田城に迫った。家康は城下に陣取って戦ったが、やがて引きあげ、吉田城に篭った。山県昌景が吉田城に迫ったが、酒井忠次の反撃を受け退いた。勝頼はこれを受け、甲斐から遠く離れた三河の吉田城の攻略を行うのは、長期にわたる恐れがあって不利だと判断し、全軍を長篠に引きあげて長篠城攻略に全力を挙げることにした。

B 長篠城攻防戦

 5月8日に武田軍は長篠城に攻撃を始めたが、城の守備は固い。そこで5月11日、勝頼は主力をもって長篠城を囲み、南の門(野牛門)に竹把(たけたば)をもって攻撃 をかけたが、城兵の反撃を受けて退却した。注1(右図参照)

 5月13日の夜、武田軍は瓢丸(ふくべまる)に強襲を仕掛けた。寄せ手は綱と結んだ鹿の角 を塀に引っ掛けて倒そうとしたが、城兵は内側から縄で柱に固く結びつけて倒れる事を防ぎ、さらに横矢を射て攻撃を加えた。そのため寄せ手は大損害を受けたが、ついにこの塀を破り、瓢丸を占領した。武田軍は井楼(せいろう)を上げようとして柱を立てたが、これが組み上げられると城内を見下ろされる事になる城兵は、大鉄砲(大砲の少し小さいもの)を持ちだし、柱に向かって砲撃した。そのため、ついに井楼は組み立てられることはなかった。

 翌14日には武田勢は再び野牛門を攻めると共に、さらに三の丸・弾正曲輪を占領、15日には本丸に迫り、本丸の西の隅へ仕寄(しより)を設け、土居に金堀(かなほり)を入れて 、基礎の大石を掘り起こしては落した。注2この土居を掘り崩される前に堀の内側にまた堀切りを作ろうとして、矢を浴びつつ城兵は必死で普請をした。注3

 このように攻撃軍・守備軍共に死力を尽くして戦っていた。しかし、だんだん奥平軍は追い詰められていた。この情勢で、織田・徳川の連合軍が出撃するのである。

C連合軍の救援と鳥居強右衛門

 長篠城攻撃を受けるの報に、家康は信長に救援を請うた。信長はこれに応じ5月13日に救援のため岐阜を出発、14日に岡崎に至り、15日はそこに滞在した。

 一方長篠城は武田の猛攻によく耐えていたが、兵糧もあと4、5日分を残すだけになり、さらに武田軍は厳戒な包囲体制を敷いていた。

 そこで5月14日、城主奥平信昌は救援を求める書状を書きこれを届ける者はいないかと聞いた。この時進み出たのが鳥居強右衛門であった。彼は武田軍の油断に乗じて城中から脱出し、15日岡崎に赴いた。そして、石川数正・奥平貞能に伴われて信長の前に出て、城中の様子を報告すると共に、すぐの救援を請い、信長もそれに応じた。

 強右衛門はこの信長の言葉を城中に伝えようとして長篠城に向かったが、武田軍に捕われる。翌16日、勝頼は強右衛門を寒狭川南岸に連れて行き、援軍は来ないと言わせようとした。しかし、彼は「援軍はまもなくくる、城を堅固に保て」と城内に告げ、このため、強右衛門は磔にかけられる。しかし、城兵は援軍の到着が近い事を知って、城を守る意志を固めたのであった。

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