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4、長篠の戦いに至るまで

 

ここでは長篠の戦いに至る背景となる戦い、

@ 三方が原の戦い
A 高天神城の戦い

の2つについて説明しようと思う。

@三方が原の合戦

 武田信玄は上洛の野望を持っていた。織田信長は志賀の陣で浅井の裏切りにあって退却してから、浅井・朝倉・三好・本願寺・一向一揆らに包囲され悪戦苦闘していた。信玄は彼らが滅ぼされる前に、信長を牽制しようとした。そのため、まず北条家と和睦し、(北条氏康は今川家と縁戚関係が深く、また武田信玄を警戒していたため上杉と同盟して武田を挟撃の姿勢をとったが、自分の死に際して、長男の氏政に上杉との同盟を破棄し、武田と再び同盟せよと言った。氏政では武田軍には対抗できないと思ったのだろう)後方を固めた。そうしてから織田の同盟国である家康の領国 遠江・三河に攻撃を仕掛けた。信玄の本当の狙いは、徳川軍を粉砕して、滅ぼすか配下に収めるかして、織田軍に脅威を与えることであった。

 武田軍に対して数ではるかに劣る徳川家康は信長に救援を求めたが、信長は佐久間信盛ら3000人余を送ったのみで自ら救援に赴かず、またこの援軍は信長から戦で無駄に兵を失わないようにと信長の密命を受けていたため、士気は低かった(先に述べたように信長は四方を敵に囲まれていて、自ら救援にいく余裕などなかった)。このため徳川家康は前線の城は捨てて本城の浜松城に篭る計をとった。

 しかし、信玄は徳川軍を決戦に誘い出したかった。なぜなら、武田軍の大半は甲斐・信濃の兵であり、長期にわたって領国を空けていられない(武田軍は兵農分離制を取っていなかった)という事情があったからである。そのために信玄は、浜松城を無視して西へ向かうふりをした。これを見て徳川家康は、これを見過ごせば、味方からの信頼を失いかねないと思い、追撃する事を決意。ここの時点で信玄の思う壺にはまったと言えるだろう。

 武田軍は三方が原をぬけて祝田への坂を下りるふりをして途中で停止、追撃してきた徳川軍とにらみ合った。この時点で武田軍は約25000で魚鱗の陣に構えていて、それに対し、徳川軍は援軍を合わせて10000余で鶴翼の陣に構えていた。

 戦いは武田軍先鋒の小山田信茂が徳川軍に攻撃を仕掛けたことで始まった。徳川軍はすさまじい勢いで突撃し、はじめは石川隊が小山田隊を押し気味だったが、旗本勢や、左右から武田四郎勝頼らの逆襲を食らい、織田軍が退却して動揺した事もあり総崩れになった。家康は武田軍の追撃を受けたが辛うじてふりきって浜松城に逃げ込んだ。信玄は、浜松城攻略は無理だと判断して引き上げた。まもなく信玄が死んだことにより家康は危機から解放されたのである。

A高天神城の戦い

 信玄の後を継いだ勝頼は1574年に高天神城の攻略に向かった。勝頼自身は山堺というところに陣取って、家康軍が救援にきたらこれと決戦しようと待っていた。城の守将の小笠原長忠はもともと今川家の家来だったが、主家の滅亡の時、徳川軍につき、その後彼は、姉川の戦いで徳川軍の先鋒を務めるなど活躍した。彼は武田軍に抵抗する一方、救援軍を要請した。

 しかし、家康は三方が原の敗戦の記憶から慎重になっていて、信長に救援を頼んだ。実は小笠原長忠の先祖は武田の同族で、もし彼と武田勝頼が示し合わせて家康を誘いこんで攻撃したら大敗するだろうという恐れがあったからである。彼は信長の軍と連合すればもし長忠が寝返っても戦えるだろうと思って、彼の援軍を首を長くして待った。信長はそれに応え、武器などの準備を充分に整えてから出馬した。

 織田軍出馬の報を聞いた勝頼は穴山信君を総大将に高天神城に猛攻をしかける一方、城内に使者を送り、開城を進めた。必死に抵抗していた長忠も、ここまで来ると家康に捨石にされるのではないかと疑い、救援の催促の使者を送ったが、家康は援軍を送るというだけで、腰をまったく動かさなかった。そして、ついに長忠は開城し、そのため、織田軍は救援に行く意味がなくなり、引き上げたのである。

 武田軍は、駿河を今川家から奪って以来、常に徳川軍に対して優位を保っていた。信玄の死亡後、家康は武田に奪われた三河・遠江の支城を奪還しようとしたが、まだ武田軍の優位は明白で、徳川軍は独力では対抗できず、そのため、高天神を失った。武田勝頼はその勢いを駆って、徳川家の調略によって寝返った長篠城を奪い返そうとしたのである。

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