×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

3、定説の否定U

騎馬隊はなかった

 

騎馬隊の印象

 さて、前述した通説では鉄砲三段撃ちの他にもう一つポイントがある。それはこの合戦が騎馬隊対鉄砲隊という図式で、鉄砲隊という集団戦法が騎馬隊という個人戦法を破り、戦国合戦を一変させたということである。

 鉄砲隊については前項でわかってくれたものだと期待している。ここでは何気なく使われている「騎馬隊」という言葉について実態を考えてみようと思う。だいだいの一般的な書物が長篠の合戦での記述に、武田軍が騎馬隊で、それを連合軍がうち破ったことを書いている。その代表的例である、教科書を見てみると

 1575年(天正3)年、信長は、三河(愛知県東部)の長篠合戦で鉄砲を大量に用いた戦法で、騎馬隊を中心とする強敵武田勝頼の軍に大勝し・・・・

(『詳説日本史』山川出版社より)

 とある。もちろんここでいう鉄砲を大量に用いた戦法というのは、「三段撃ち」に他ならず、それについては前頁を見てもらいたいと思う。もちろん三段撃ちもなく鉄砲も大量に使っていない。(これもp.10以降参照)

 問題はここで出てくる「騎馬隊」という定義がわからない単語である。長篠の合戦に関する本にはほとんどに騎馬隊、または騎馬という言葉が出てくる。*1しかし、そこで「騎馬隊」とは何か?と定義されているものはほとんどない。つまり、こういうと失礼だが「騎馬隊」があいまいなままで何もわかっていないまま、勝手に「思いこみ」としてつかっているまでである。(余談だがもしこんな事を数学でしたら、追求されること間違いなし。)

 「騎馬隊」といわれて読者の皆様が想像するのは、みんな馬に乗って総大将の指揮の下、ワーーと長槍を手にして突っ込んでいく、こんな感じではないだろうか。これは大河ドラマなどの時代劇シリーズによく出てくるシーンだが、この場面の考証は非常にあやしい。だいだい「騎馬隊」をきちんと定義しない学者はこう考えているであろう。これは大きな盲点だと思われる。

騎馬隊はなかった

 結論からいってしまえば、このようなはじめからみんな騎馬に乗って突っ込む「騎馬軍団」は存在しない。だから「武田騎馬軍団」などはなかった。ここでは「武田騎馬軍団」を中心にみていきたいと思う。

 これも馬という生物面から見てみると、日本の馬は、時代劇に使われるサラブレッド、ではなく木曽馬などで馬格は貧弱、背丈は1m20cm〜1m40cmほどである。おまけにわずかな障害物も飛び越えられず、火炎と轟音にすぐ驚く。これでは障害物が多い戦場では役に立たない。これが第一の理由である。

 あと三つ、決定的な騎馬隊否定の理由がある。

 一つ目は軍役帳からいえることである。これは『長雲寺文書』*2にあるのだが、それによると、軍役の総人数において310人中、乗馬の者は23人と10%以内である、といっている。

 次は、『甲陽軍鑑』の以下の記事である。

 武田家の大将や役人は、一備え(千名ほど)の中に、7人か8人が馬に乗り、 残りはみな、馬を後に曳かせ、槍をとって攻撃した。(巻6品14) とある。

 最後はイエズズ会の先駆者(栄光学園はイエズス会が創立した)・ルイス=フロイスという宣教師が残した書物による。フロイスは日本で布教し、織田信長の下で保護された宣教師である。彼が日本の様子を知らせるために、ヨーロッパに書いた『日本覚書』によると、

 われらにおいては、馬(上)で戦う。日本人は戦わねばならぬときには馬から下りる。(第7章、37)
 われらの馬は非常に美しい。日本のはそれよりずっと劣っている。(第8章、1)

 とある。ただフロイスの記事は宗教関連や庇護者に関する記事には、信頼度が落ちるという。そしてフロイスの言う事は結構感情的になっているものが多い。しかし、

1、 この20年も前にイエズズ会の先輩のフランシスコ・ザビエルも同じように言っている*3こと
2、 馬に関する記事と宗教、庇護者の関連が強くない事
3、 先ほど示した軍役帳

 この三つからいってフロイスの言う事はどうやら信頼できそうである。

 この事から馬に乗ったままみんなでワーー!と攻め込まず、日本人は騎乗し たまま戦わない習慣があった事は、明らかである。

 それから『甲陽軍鑑』の記事によれば、騎乗するかどうかはその者の地位や身分によって決まっていたことが確認される。だから、ちまたにいわれているような「騎馬隊」は存在しなかった。ただここで、騎馬武者がいて、それが各隊の根幹をなしていれば、「騎馬隊」だと思うかもしれない。だがそれは当時の編成(身分のある者だけが馬に乗り、のこりは徒歩)からして、徳川軍で織田軍でも北条軍でも同じである。だから、そういう仮定をすると、「織田騎馬隊」、「徳川騎馬軍団*4」も存在することになる。また、長篠の合戦では、連合軍が堀、柵、土塁の三点セットの陣をつくっていたから(p.26参照)普通に考えてもそこへみんなで騎乗して突撃、なんてことは考えられない。また、『甲陽軍鑑』には長篠での騎馬軍団突撃説は織田方が宣伝したもので、現地の地形からしてもそれはなかったと主張している。おまけに合戦当日は、雨で田がぬかるんでいてとても馬が走れるような状況でなかった。しかし騎馬隊の存在を主張する論拠としてよく登場するのが、『龍城文書(p.43参照)』というものがあって、「敵は馬一筋に攻撃しくるぞ」と書いてある。がこれは書式・内容からいって後世つくられた偽文書の可能性が高く、騎馬隊の存在を立証する史料とはならない。またこれは偽文書ではないとしても、当時の慣行から追撃戦での騎馬突撃を意識したものだと思われる。(追撃戦で馬が使われたことは次に述べる)

馬の実態

 というわけなのだが、では馬は何に使われてのだろうか。

 それは「追撃戦」である。歩兵中心の部隊(と数人の騎馬武者)が両軍入り交じって戦う。そろそろ山が見えたというときに騎馬兵で突撃をかける(実際は歩兵も混じっていたらしい)。というのが実態だったらしい。『三州長篠合戦記』*5によれば武田勢は馬上の達者、戦いなかばに馬を入れ、敵陣を馳せて破ると聞いているので・・・・ とある。上の「馬を入れ」というのは馬を突撃させることである。「戦いなかば」というのは戦いの途中で、の意である。以上より、馬は敵を追撃するときにつかわれたと考えられる。ちなみに我が国で近代的な「騎兵隊」がはじめて編成されたのが1862年頃である。

騎馬隊神話の定着

 ではなぜ「武田騎馬隊」意識が定着してしまったのであろう。これも『甫庵信長記』にそれをほのめかすような事が書いてあり、それを参謀本部が書いた『日本戦史・長篠役』が装飾したことによる。(「其ノ兵ハ騎戦ヲ好ム」)これは騎兵が銃手が待ちかまえる敵軍に突撃してはいけない、という題材にしたのかもしれないが、それよりも一方的な思いこみであると思う。武田の領地である木曽は木曽馬の産地である。であるからして多分騎兵が多いのであろう、という勝手な思いこみから来ていると考えられる。それをまた、軍部の意向には逆らえず、大衆小説などに入れられ一般化した。(戦前の歴史学者の権威であった田中義成氏は騎馬隊について存在を認める立場をとっていない)戦後になってもその傾向は変わらずに、小説やコーエー系ゲームにとりいれられ、「騎馬隊意識」は今でも国民に定着している。

目次