2、定説の否定T

鉄砲三段撃ちと織田・徳川軍の鉄砲隊の実態

 

三段撃ちとは

 さて、定説・通説は理解してくださったであろうか。そのポイントとしては、織田・徳川軍の鉄砲三段撃ち、騎馬隊対鉄砲隊で戦国合戦を一変させた、ということがあげられる。

 しかし、我々が一年間研究を重ねた結果、そのようなことはないと申し上げなければならない。ここでは鉄砲隊について考えてみる。先ほど通説の中には、

 「このころの鉄砲というのは、単発銃で、次の弾が撃てるようになるまでにはすくなくとも30秒がかかる。その欠点を補うために信長は3000挺の鉄砲隊を千人ずつ横三段に備え、各段が交替で一斉射撃するという新戦術を編み出した。こうすれば、弾込め(装填(そうてん)という)中に敵に攻められないで済む」

 というものがある。わかりやすく言えば、その頃の鉄砲は、火縄銃といい先端から弾丸を込める、先込め式で、弾を込めるのに30秒はかかる。武田軍は騎馬軍団を擁するので、一発撃ったあとに、蹂躙されてしまう危険があった。そうならないように途切れなく撃たせるために、3000人を3つにわけて、号令とともに、前の一列が撃ち、後ろにまわって弾込めをする。そうすると2列目が前進し号令とともにまた撃つ。それも後ろにまわって弾込めをする。次に3列目がでてきて撃って、後ろにまわって弾込めをする。すると、もう1列目は準備ができていて、発射できるというわけだ。あとは繰り返しである。名付けて「三段撃ち」である。

 これは非常に合理的であり、一見しただけでは反論の余地はない。私も一時はこれに心酔していた。が、最近になってからだろうか、これが見直されはじめた。その中心が軍事史研究家の藤本正行氏、時代考証家の名和弓雄氏、歴史家の鈴木眞哉氏の三氏である。

 それではいろいろな面から、この「鉄砲三段撃ち」を考察したいと思う。

行動面から見た虚構

 まずは行動的な面から説明しよう。

 先ほど紹介した名和弓雄氏の実験に拠れば、三巡したところで全員が息を切らし、へとへとに疲労しギブアップしたという。なぜなら、重量のある鉄砲、弾薬、火縄、火つけ道具などの小道具を携行しなければならなくて、さらに鉄砲隊は相手の鉄砲隊の狙撃目標になるため、鉄陣笠や鉄の具足を身に付けなければならない。それらとさらに、刀や水筒もつけると、相当な重さになるからである。どんな史料にも戦闘は3時間は続いたとある。これではそんなに長く敵を支えることができないのは明らかである。さらに、これは移動による疲労がはなはだしく、呼吸が荒くなり命中精度が低下する。それに敵が前にいようといまいと撃たなければならないので、(そうしないと移動も装填もバラバラになる。)不発銃が出たときには混乱してしまう。

 武田軍は鉄砲隊全員の射程距離に入るとは限らない。つまりそういう状況はほとんどない。それでも撃っていなければならないとは、何と不経済なことか。装填しても敵が来襲してこなければ、3分以内に火縄をつけ直さなけばならない。これは非常に面倒である。その前に誰が鉄砲隊全員に聞こえるように号令を出すのであろうか。戦場は狭いとはいえ、南北に500mほどはある。それに戦闘がはじめれば、鬨の声などで号令が聞こえなくなるに違いない。そう考えると、まず全鉄砲隊に一斉に撃てー、と号令することは難しいと考えざるを得ない。また実際に現地を探索してみるたのだが、現地はすこぶる狭く鉄砲隊が3列にならんで三段撃ちできるスペースなどない。

 また、鉄砲隊が3列に並び、皆座っていて移動せずに1列目が立ち上がって撃つと座り、次に2列目が立ち撃ったら1列目が座り、3列目が立って撃つと2列目が座る。すると直ぐに1列目が立って撃って座る、という別の三段撃ちの方法がある。これは時代考証家の二木謙一氏がとっている説だがこれには大問題がある。発射時に焼けただれた ?煙のかすが前方4,5mに爆風をともなって飛び散るので、前にいるものはたまったものではない。それに背後から実弾が飛んでくることにはいたたまれない恐怖感がある。以上が行動面からの反対理由である。

書物面から見た虚構

 次に書物面から三段撃ちの有無を説明しよう。 まず、三段撃ちがはじめてお目見えするのが、小瀬甫庵という儒医が江戸時代に書いた『甫庵信長記(ほあんしんちょうき)*1』という書物である。それには以下のようにある。

 かくて五月廿日の夜も、ほのゞゝ(ほのぼの)と明けゝれば、信長公先陣へ御 出あつて、家康卿と御覧じ計られ、兼て定め置かれし諸手のぬき鉄炮三千挺に、 佐々内蔵助、前田又左衛門尉、福富平左衛門尉、塙九郎左衛門尉、野々村三十 郎、此の五人を差添へられ、敵馬を入れくらば際(あいだ)、一町までも鉄炮打たすな。 間近く引請け、千挺づゞ放ち懸け、一段ずつ立ち替わりゝゝゝゝゝ(たちかわ り、たちかわり)打たすべし。敵猶強く馬を入れ来らば、ちつと引退き、敵引 かば引付いて打たせよと下知し給ひて、五人の者を引具し柵際より十町計り乗 出し給ひて、・・・・・・

 このく「間近く引請け、千挺づゞ放ち懸け、一段ずつ立ち替わりゝゝゝゝゝ(たちかわり、たちかわり)打たすべし。(間近までの最待って、鉄砲隊が千挺ずつ撃ち、一段ずつ入れ替わって撃たせた)」という意味である。これが三段撃ち論者大は史のよりどころである。しかし、この『甫庵信長記』という本は江戸時代(1611年頃)につくられた書物で、内容料一つというか小説に近い。つまり全体的に信頼できる内容が書いていないということである。(信長の美濃攻めでのく、爆合戦を勝手に二つに分割する、閏月を忘れている、などの欠落がある)だが、この本は小説なのでおもしろ発的土記』にヒットした。そのおかげで江戸時代に書かれた書物はみんな三段撃ち説をとっている。『改正三河後風*れたい、『三州長篠合戦記』*3、『長篠日記』*4などがそれである。

 だが、戦国期や江戸時代に入って直ぐ書かわゆるうき)』の信頼できる書物にはいっさい記載がない。その一つである『信長公記』(『甫庵信長記(ほあんしんちょように上ら話を盛り上げていないと思われる物)*5には、

 信長は家康陣所に高松山とて小高き山御座候に取れ又、敵の動きを御覧じ、 御下知次第働くべきの旨兼てより堅く仰含められ、鉄炮挺ばかり  佐々蔵介・前田左衛門め・野々村三十郎・福富平左衛門・塙九郎左衛門、  御奉行として近々と足軽懸けられ御覧候。前後より攻られ を、御敵も人数を出 し候。 (織田信長は徳川家康の陣所があった高松山という小高い山に上がり、敵の動きご衛覧になって、命令通り動くように厳命し、鉄砲千挺ほど、佐々蔵介・前田 又左衛門・野々村三十郎・福富平左門物に・塙九郎左衛門を奉行として足軽を出 し、敵の武田軍も兵を進めてきた。)

 とある。『信長公記』という書はもちろんる、良間違いもある。しかし、『甫庵信長記』などと比べればずっと良質である。では何をもって信頼でき質瀬甫である、というのか。それは@書いた人物、A書かれた年代、B書かれた目的による。『甫庵信長記』は小庵異なという儒医が江戸時代初期に書いたもので、内容は儒教的観念論に基づき、戦国時代に書かれた書物とはるた軍記事が多い悪書である。対して『信長公記』は織田信長の弓衆・太田牛一という武士が1610年頃までに書い記る程である。藤本正行氏は牛一の日記が集まったものだと言っている程である。内容は古文書から確認がとれ、あ度信頼る史できるものである。ちなみに儒教的思想観は露骨には見られない。

 それにその他の比較的信頼でき料事である『三河物語』*6、『当代記』*7、には三段撃ちを表す意味のフレーズは全くないことから、『信長公記』の記を段取るべきである。

 信頼できるかどうかは半々だが『甲陽軍鑑』*8にもそれは記載されていない。ここからも三撃あちがありえなかったことがわかるだろう。

 さて、先ほど「千挺」と書いてあったが、『信長公記』には「三千挺」とるものと「千挺」とあるものあることが判明した。(p.14参照)私も非常に驚いたのだが、「三千挺」とある本では、「千」の上に「三」が少し書き加えられているのである。これは次の写真を見てもらいたいと思うが、これはその作者が大づかみな数しか把握できなかったことを意味しているという。

 先ほど、行動面で三段撃ちの否定をしたときにそのやり場方を説明した。わずかにでもその可能性を見いだすならば、その鉄砲隊が非常に鍛えられた精兵であった合がである。ヨーロッパの戦争によると、移動しない三段撃ちも、動く三段撃ちも鍛えなければできない、ということわかるな。はたしてここでの鉄砲隊は精兵だったのだろうか。答えはNOである。なぜならこの時の鉄砲隊は明らか寄でせ集め部隊だったからである。細川藤孝や大和の大名・筒井順慶に鉄砲隊も行ったという記録が残っているのある駆。*9ちなみにそれに拠れば、筒井の鉄砲隊はあまりガッツがなかったらしい。これらの部隊は決戦の直前にけあ込みで到着し、戦闘に参加したらしい。これは共通練習がなかったということを意味している。これでは精兵でるわけがないで。なので三段撃ちはできない。

 だから、前述のように『信長公記』の作者は正確に鉄砲の量を把握きなかったのである後。よって「千挺」という適当な値を書いたと考えられる。、また、「千」の上に加えられた「三」は、世加の正えられた可能性が高いという。なのでここでは「千」の方を我々の見解としたい。しかし、正直なところ、鉄砲確な数は「藪の中」なのである。

 

鉄砲隊の実態は?

 では、鉄砲隊は何をやっていたんだ、という思っている読者の皆さん、それにお答えしよう。前述の通り、これは寄せ集めの鉄砲隊であって、行動面からも史料面からも、とても三段撃ちなど確認できない。だが正直なところこれについては何々していたという信頼できる記録がない。最近、連合軍は武田軍に向かってただ撃っていればよかった、という新説が唱えられている。どうやらこれが実態だったらしい。普通に撃っていればわざわざ取り立てて記載する必要がない。だから、その鉄砲隊の撃ち方に記録がないとも考えられる。普通に撃っていれば、もちろん一発撃ってから次を込めるまでに時間がかかる。それにも関わらず、長時間の武田軍の攻撃に耐えられことのカギは、両軍の兵数比である。

 通説では、織田・徳川連合軍は3万8000人、武田軍は1万2000人ほどだと言われているが、これは多すぎる。我々は春休みに現地を探索してみたが、とても5万人もの人が布陣できた場所とは思えない。これは『長篠之戦*10(高柳光寿・著)』のいう通り、連合軍は1万8000人ほど、武田軍は7000人ほどであったと思われる。いずれにしても連合軍は武田軍の約2〜3倍あったことは確かで、いいかえれば連合軍が圧倒的だったことを意味している。さらに武田軍が波状攻撃を掛けてきたことは史料から明らか*11なので、それにあわせて撃っていればよかった。そういうわけなので、単発でも連合軍の鉄砲隊は圧倒的に少なく波状攻撃を仕掛けてくる武田軍に対し普通に撃っていればよかった。

 実は火縄銃の弱点である、装填時間の長さについて、実用的な打開策は2つあると考えられる。その打開策を言うのはいうまでもなくひっきりなしに撃つ方法である。もちろん三段撃ちではない。(それが実用的でないことは行動面で述べた)絶えず撃つ方法の一つは、銃手を数名ずつの小グループに分けて、彼らの中で順番に撃たせていく方法で、三段撃ちのように号令は必要ない。二つ目はこれも数名のグループをつくって一人が撃ち手となり、他の者はもっぱら弾込めにまわる「雑賀衆式」と呼ばれるものである。信頼できる史料にそれらについて何も書いていないで、さらに兵数が圧倒的に多いことを考えると我々は、普通に撃っていればいい、という見解に達した。だから、織田信長が「三段撃ち」のような画期的な作戦を生み出したと考えるのは間違いである。

三段撃ち神話の定着

 それでは、どうして三段撃ちが定着してしまったのだろうか。その発端が『甫庵信長記(ほあんしんちょうき)』であることは前に述べた。『甫庵信長記』は1685年頃に遠山信春という人物によって増補改訂されて『総見記』という軍記にまとめられたそれには三段撃ちが『甫庵信長記』と同じように書かれている。それが明治期に入り、参謀本部が『日本戦史・長篠役』が編纂した際に『総見記』をベースにして書いたので三段撃ちが公認され、学界でもそのまま吟味されることはなかった。つまり戦前に学界では鵜呑みにされたのである。それは戦前の歴史学者・田中義成氏によれば、三段撃ちを肯定するかのような表現を用いていること*12で確認できる。その傾向は戦後になっても変わらず、大衆小説や映画のワンシーン、そしてコーエー系のゲームにも採用され、三段撃ちは国民の常識(?)として定着している。なお、三段撃ち批判がはじまったのは、約20年ぐらい前からである。

目次