×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

1、定説・長篠の戦い

 

 長篠の戦いとは大まかに言って織田軍と徳川軍の連合軍の鉄砲隊が3000挺の鉄砲で三段打ちを行い、勇猛で知られる甲斐(山梨県)の武田軍の騎馬隊を壊滅させた戦いといわれている。ここでは、長篠の戦いの動きについて一般的に言われている事について書こうと思う。そのためにまず騎馬隊と鉄砲隊について軽く触れる。
 騎馬隊というものは数千という単位の騎兵が集団的な訓練を施されて出来る部隊であり、集団形態での敵軍への突撃がもっとも脅威となる点であった。数千単位の馬が密集して攻めこむ突撃力は並々ならぬ物があり、ヨーロッパでは軍の中でかなり重要な位置を占めておいて、また18世紀のナポレオンの時代でさえ有力な武器の一つであった。武田信玄は山国育ちで耐久力があるという甲斐の馬の利点を生かして、騎馬隊を編成した。そして、その騎馬隊による密集戦法はその突撃力と迅速な攻撃によって各地で猛威を振るい、天下無敵の実力を誇ったといわれている。
 一方織田信長は鉄砲という新兵器を大量に(一説には3000挺)所持していたが、無敵と評判の高い武田の騎馬隊と戦うことになって考え込んだ。当時の鉄砲というのは発射後の弾込めに時間がかかり、準備にもたつく所を攻めこまれる恐れがある。しかしそこは名将信長のこと、画期的な方法を考え出した。それは、まず、「馬防柵」を作り武田軍の騎馬隊を食い止める。そして、3000挺の鉄砲部隊を3列に配置させ、1000挺ずつの鉄砲を順々に発射させ、相手に付け入る隙を与えずに打ち倒すという戦法である。
 信長は摂津の石山本願寺との戦いで鈴木孫一らが率いる雑賀衆の鉄砲隊に苦しめられた経験から、このような鉄砲のみの部隊を編成したといわれる。また、彼が堺の町を手にしたこと、キリスト教の布教を許可して貿易を行ったこと、また近江の国友村、紀州根来寺のような鉄砲の生産地を手にしたのも、鉄砲の有効性を感じていたからだといわれている。
 甲斐・信濃の兵は田舎育ちということ・また武田信玄という名将の指揮を受けていた事もあって武田軍は勇敢さでは比類がなく、兵も戦えば必ず勝つという信念を持っていた。一方織田軍の本拠地である美濃は商・工業が発達していて、その分兵士も利にさといが勇敢さにかけるという面があった。また他にも近江・畿内・三河(徳川軍)などの兵がいた。これらは寄せ集めの軍隊であり、いったん敗ければ動揺して武田軍に大敗するかもしれないという心配があった。このように兵の士気・強さなどで劣る織田・徳川軍は個人の勇気に頼ることなく、鉄砲の三段うちという集団が一つになって敵を打ち破る戦術を取った。昔ながらの戦術を取る武田軍、鉄砲という最新兵器を用いて対抗する織田・徳川軍。それでは戦いの方を見ていこうと思う。
 奥平貞昌が徳川軍に寝返った事を知った武田勝頼は大いに怒り、長篠城奪還に向かった。降参は許されない奥平軍は必死に戦うが、金堀衆などを用いて猛攻した結果、城の兵糧米を奪い取った。これを受け家康は織田信長に救援を求めた。信長としてもこれを見殺しにすれば家康が武田軍に降伏する恐れがあったので、救援に赴き、家康と共に設楽原に陣取る。かれは、岐阜出陣に際して、足軽雑兵に至るまで、兵卒らに柵木と縄を持たせた。そして、連子川沿いに三重の木柵(馬防柵)を構えさせた。
 武田勝頼はこれに対抗して軍議を開いた。馬場・山県・内藤ら武田の宿将は、敵の方が人数が多いのに加え、長篠城の包囲にも兵を割かなければならず、勝算は薄い、この場は退却し、敵が追撃してきたら信濃の伊那谷で反撃すれば良いと進言した。しかし、勝頼は御旗・盾無の旗の下に決戦を宣言してしまい、こうなってしまえば宿将も共に戦わざるを得なくなった。決戦場の兵力は武田軍12000に対し連合軍35000であった。
 勝頼はなぜこのような決戦を挑んだのか、理由は3つ言われている。1つ目は勝頼が美濃・遠江の小城を陥とし、長坂釣閑や跡部勝資らの側近におだてられて慢心していたということ。2つ目は織田方が佐久間信盛の偽装内応などを用いて、織田軍戦意低し、の情報を流し、鉄砲の輸送などもひそかに行ったこと。そして3つ目は勝頼は信玄の正式な後継ぎではなかったために、穴山・小山田らの一門衆が命令に服さず、そのため無謀だと知りながらも自分の実力を誇示する必要があったことである。
 決戦が始まった。武田軍は、順に山県昌景、武田信廉、小幡貞政、武田信豊らの騎馬隊が攻め寄せたが、馬防柵に阻まれて死人の山を築く。徳川軍の大久保忠世・忠佐の兄弟は、天下無敵で知られた武田軍に対しても屈せず果敢に戦った。  武田軍は前線が大損害を受けたのを知ると総攻撃をしかけてきた。この勢いはすさまじく、連合軍の柵は二重まで破られたが、武田軍の力もそれまでで、連合軍の猛射を受け、損害は増え続ける。

 このような戦の中で、織田信長は名のある武将に向けて鉄砲を撃つよう指示し、このため、山県昌景・原昌胤・真田信綱・同昌輝・甘利信康・土屋直規・高坂昌澄など、他国にも名の聞こえた武将が次々と討ち死にし、武田勝頼の本陣にも動揺が広がる。信長はこの機を逃さず総攻撃を指示、武田軍は一たまりもなく崩れた。内藤昌豊・馬場信春はこの退却戦で勝頼を逃がすために奮闘して討ち死に、勝頼は近習数人と共に逃げ去っていった。

 この戦いで、多くの名将・精兵を失った勝頼は、一門衆に対する統率力をなくしてしまう。その結果、1582年に織田軍が侵攻して来た時、ほとんど抵抗する事もなく武田家は滅びてしまった。

 武田軍は決してただ鉄砲に打たれただけで負けたのではなかった。武田の騎馬隊も、不利な形勢の中、馬防柵を2重まで打ち破り、佐久間隊・滝川隊を崩したりしている。また、損害を見ても、武田軍1万余に対し、連合軍6千とよく戦っている。この戦いは決して武田の一方的な敗北ではなく、むしろ武田軍の精鋭が死力を尽くして戦った決戦だったといえるだろう。武田の宿将・その他の武将の壮絶な戦いと戦死にもその事はよく分かる。

 それでは勝頼はなぜ負けたのだろうか。

1、 騎馬隊が思うように展開できない設楽原に織田方によって、巧妙に誘い出された。
2、 正当の後継者でない勝頼は織田軍に勝つことによって家臣団・一門衆に力を誇示しようと思って焦っていた。(実際、このような激闘のなかで、穴山信君・武田信豊らの一門衆は織田軍の総攻撃に対し抵抗する事もなく退却していた)
3、 織田信長の指示で鉄砲隊が雑兵に構わず武将を狙って射ち殺し、それによって、武田軍が動揺した。

 などが言われている。これらには全て一理あり、また、これらが合わさって敗戦となったとも考えられる。しかし、最も本質的なことは騎馬隊で突撃するのみの戦法は既に時代遅れで、組織的な鉄砲隊にはかなわないということに信長は気付き、勝頼は気付かなかったことであろう。応仁の乱で足軽というものが登場してから、武士のみの一騎打ちを中心とした戦いから、庶民も動員した集団戦に変わってきた。すなわち、より高い戦術が必要とされる時代になってきたのだ。

 勝頼は父親の信玄からも軽率だと評されるように、一勇の将ではあったが、全軍を指揮すると共に大局を見渡す事が必要な大将の器量はなかったのだろう。信玄が謀反の疑いありとして長男の義信を殺してしまったのが敗北のそもそもの原因かもしれない。

 以上が「長篠の戦い」の定説である。この「誇張された真実を暴く」のが本題である。

目次