9、結語

 

 このようにして本能寺の変は顛末(てんまつ)を向かえた。しかし我々の出した結論としては、結論は出せない、というものだった。どうもこの研究はやればやるほど穴が見つかるようなのである。どの説にも必ず説明できないところがあるのである。だから、各項目を一つ一つ論議し結論を出せるものは出し、あとは読者のみなさんに委ねることにした。
 正直なところ私は初め、野望説が臭いと思っていた。しかし根拠が明確でないから、その主張をやめて近年注目されつつある朝廷黒幕説ではないかと思った。しかし朝廷側と光秀側の事前のコンタクトを調べてみると、ほとんどといっていいほど事件の証拠と言うべきものが残っておらず、朝廷黒幕説をやめた。次ぎに義昭黒幕説ではないかと思った。それは各勢力の接触がちゃんと史料に基づいていたからである。しかしどうして足場の毛利を固めておかなかったのか、という疑問に説明することができず、義昭説もやめた。というわけでどの説もとれなくなってしまった、というのである。
 この研究をどうしてはじめたか。それは「史料」が多いからである。「史料」があれば「長篠の戦い」のようにうまくいくと考えていた。しかしフタを開けてみると、「史料」が多量にあり結果的には混乱してしまったかもしれない。しかし史料があれば各項目の吟味ができ、真相解明に前進できるのである。
 本能寺の変も何か史料さえ出てくれば、もっと解明が進む。しかしないものねだりしてもしょうがない。我々ができるのはここに現在までの研究成果を書くことしかない。それで以上のような論文ができたわけである。
 また、ここでは紙面の都合で羽柴秀吉の行動について詳細を明記することはできなかった。しかし秀吉の「中国大返し」の行程は不可能なことではない。むしろ順当というべきである。そして、毛利との交渉がまとまりかけていた時に、本能寺の変が起きたのだから、これは運がよかった。そうでなければ、柴田勝家や滝川一益のように身動きがとれなかったであろう。秀吉に対比していわれるのが光秀である。

 だが光秀は何もしなかったわけではない。美濃・近江を従わせるなど効果を上げているのである。これは秀吉が戻ってくるのが早すぎたために敗北したのである。だから、秀吉を褒めることはあっても光秀に欠点を見いだすことはできない。

 以上こんなところが概論である。最後に結果論になるが本能寺の変で得をした、秀吉や徳川家康(甲斐・信濃を領土化)がその後の日本を先導していったのは、本能寺の変が日本に与えた影響の大きさを物語るものではないか。

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