8、事件の結果と顛末

 

 以上のように本能寺の変の原因ははっきりとしていない。だが各説を整理して、それぞれの長所・短所、各項目ごとの吟味などにまとめてみた。これで事態を少しはわかりやすくなったと思う。

 ここでは本能寺の変の進行と顛末までを今までの史料を吟味しつつ解説する。

信長の最期

 一般に知られている信長の最期は、

 「朝銃声を聞き、森乱丸(らんまる)が『桔梗(ききょう)の旗印(明智)です!』と叫ぶ。すると信長は『是非(ぜひ)もなし』といって、弓矢をとり戦うが、弓のつるが切れてしまう。すると今度は槍をもって戦うが体に傷を受け、奥に入って自害した。」

 というものである。これは主に『信長公記』の記述をとったものである。しかし最近『本城惣右衛門覚書(ほんじょうそうえもんおぼえがき)』という根拠によってそこまで派手ではないことがわかってきた。この覚書は光秀の家臣が1640年頃の書いたものである。これには、討ち取る相手は徳川家康だと思っていたこと、首はうち捨てという指令が出ていたこと、信長が白い着物を来ていたこと、戦いがすぐ終わってしまったことが書いてある。光秀は信長をは本能寺で討ち取った後、光秀は妙覚寺(みょうかくじ)にいた織田信忠を討つ。その後の行動は表の通りである。

 

日付 明智光秀軍の動き 羽柴秀吉軍の動き
二日 未明本能寺を強襲。信長を滅ぼす。又、同時に二条城を襲撃し信忠を殺す。坂本城に入る 三月から備中高松城を攻撃中。五月からは水攻めを開始するも毛利輝元の出陣を受けて17日信長の来援を請う。講和難航
三日 近江・美濃へ使者を送る。
大山崎に禁制を掲げる
四日 近江・美濃を殆(ほとん)ど制圧する この日までに本能寺の変の報を受ける
五日 安土城に入る。津田信澄(のぶずみ)殺害
佐和山・長浜占領
午前、講和成立。清水宗治が切腹。
高松に在陣し、毛利氏の動向監視。それと同時に中川清秀等に書状を送る
六日 近江多賀社(たがしゃ)に禁制を出す 午後3時、高松を発し、夜、岡山に至る
七日 安土で吉田兼見と面会○ 暴風雨に遭い、滞陣
八日 近江処分終了。坂本に入る 姫路城到着
九日 京都に入り人心収攬に努める。
細川藤孝に最後の勧誘
明石到着
十日 洞ヶ峠(ほらがとうげ)に陣し、又河内に出兵する 中川清秀へ返書
十一日 筒井順慶(じゅんけい)山陣せず下鳥羽に帰り、淀城を修築。夕刻布陣完了 午前、尼崎に進出(中国大返し完結)。信孝・丹羽(にわ)・池田等に着陣を通知し参陣求める
十二日 紀州惣国(そうこく)一揆へ出陣要請 丹羽長秀らと作戦会議
十三日 陣を御坊塚(ごぼうつか)に移す。午後4時から戦闘になるが総敗北。勝竜寺(しょうりゅうじ)城へ 富田で信孝を待つ。先鋒が山崎を占拠。
正午、信孝軍と合流し進出。山崎の合戦。
勝利して追撃し勝竜寺城を包囲

 

光秀の変後行動

 本能寺の変後の光秀は専ら信長の本拠近江の平定に費やされたが八日には大方終了し、近江安土城を発して自身の本拠坂本に帰り翌九日、公家衆の出迎えを受けて京都に入り禁中に銀500枚をはじめとして五山・大徳寺および吉田兼見(かねみ)に金銀を与え、さらに京都市中の地租を免除するなど各方面の人心収攬に努力した。その上で老臣を市政にあたらせ、各武将を淀・伏見・宇治に置き警備にあたらせ自身は十日に京都を発し洞ヶ峠に陣した。

 光秀が洞ヶ峠に赴いたのは順慶(左肖像)を組下に入れるためで、又河内にも兵を出して付近の豪族の来属を求めた。光秀としては各地に散らばっている信長の武将達が引き返してくる前に早急に自軍の兵力を増強し対抗しえる力をつける必要があった。順慶はもともと組下であるから当然自分に来属すると思っていたのに参軍しないので、本拠郡山に圧力を加えたのである。光秀軍は謀反軍であるからここで順慶を味方にするしないは全軍の士気にも大きく影響するし、その合計兵力でまず信孝・丹羽長秀軍を叩こうと言う光秀の思惑だったのだろうが結局順慶は参軍せず、十一日秀吉が姫路を出発して兵庫に入ったと言う情報を得て光秀軍は下鳥羽に帰り一部の兵で淀(よど)城を修築した。(これによって筒井が洞ヶ峠に布陣して日和見だった、なんて事はない)

 ここにおいて光秀の計画は頓挫(とんざ)し細川親子どころか筒井順慶までも来属せず、さらに自分の組下である池田恒興(いけだつねおき)・中川清秀・高山重友(たかやましげとも)までも味方に引き入れることに失敗した。それと同時に秀吉の急速な進出によって摂津・大和・丹後の平定が実行できず、後には兵力過少という大問題が残されてしまった。 しかし前の表をみてもらえばわかるが、光秀は決して茫然自失な状態であったわけではない。近江・美濃を掌握すべく万全を尽くしているのである。朝廷へも贈り物をするなどすることは抜け目ない。しかし筒井順慶や細川藤孝ら光秀の与力衆が光秀につかなかったのは大きな問題であった。

 そうした間に秀吉が戻ってきてしまったのである。秀吉の行動は「中国大返し」と呼ばれ、奇跡的だとされている。しかし表と地図を見れば別に不可能な話ではないのである。一つ面白い話がある。5日に中川清秀に書状をつかわしているのだがそこには「信長が無事で生きている」と書いているのである。(「梅林寺文書」)これは偽文書ではないらしいのである。つまり秀吉が意図的に味方に付けるため嘘をついているわけである。戦国武将は書状ではよく誇大に書いたり、嘘を書く。そういうことを表しているである。

山崎の合戦

 山崎の合戦は本能寺の合戦の11日後の6月13日、山崎の地で起こった。山崎は山城乙訓(おとくに)(現・京都府大山崎町)にあり、男山八幡の高地と天王山高地によって短隘路(たんあいろ)となっていて京都と西国を結ぶ要衝である。光秀としては京都守備のためこの地の死守は死活問題であり即ち82年613日秀吉の上洛軍と戦うこととなる。

天王山放棄

 兵力過少により要衝・八幡から撤退した光秀軍であるが、超要衝の山崎・天王山からも撤退し、本陣を下鳥羽に構えた。昔からこの地の争奪戦に敗れた光秀がそのまま戦闘にも破れたといわれてきた。しかしこのように戦前から既に光秀は天王山を放棄していたのである。たしかに天王山は天険であるが、このときの光秀軍の状況からするとさして重要ではないことがわかる。それは次の点である。

1、 光秀は四方信長の遺臣に囲まれている。数日間秀吉軍の進行を天王山で阻止しても最終的な敗北は必定。
2、 天王山に兵力を割くより、隘路(あいろ)を少量ずつ通過せんとする敵を結集した大兵で殲滅できれば勝てる。
3、 敵の急進出は予想外である。この際近江方面に在る有力部隊との連携を保ちつつ来援を待ってこの平野で決戦するしかない。
4、 京都の治安維持のためにもあまり京都を離れられない。下鳥羽に陣を置くのが妥当である。
5、 兵力が過少である。

 以上のように京都の治安を守りつつ近江と連携を保ち決戦するつもりだったのだ。事実『豊鑑(とよかがみ)』には光秀の要請を受けて安土の明智秀満が14日未明に出発しているがこれは遅すぎた。ともかく、こうして光秀は本陣を下鳥羽に置き勝竜寺城を前線拠点とし、淀城を左翼拠点とし、それから円明寺(えんみょうじ)から円明寺川に沿って西方まで前衛を敷き秀吉軍を待ち受けた。このように光秀は山崎の合戦までの間至当な処置を行っていたことがわかる。最善を尽くしたと言ってよい。しかしながら最後にものを言ったのは兵力の過少である。これが無ければ文句無しに天王山を占拠していたはずだ。両軍の兵力の内訳を見てみよう。

両軍の兵力差

 では実際両軍の兵力にはいかほどの差があったのか。『兼見卿記』によれば秀吉軍2万余とあり『太閤記』によれば秀吉軍が約4万、光秀軍が1万6千とあるから大体光秀軍が秀吉軍の約三分の一であっただろうと推測できる。その内訳を見てみよう。

 まず秀吉軍だが播磨・備前・但馬・因幡の兵に加え織田信孝・長秀・堀秀政軍および中川・池田・高山軍等の摂津衆が加わり兵力が増大している。毛利への抑えとして残す兵もそこまで多くなく済んだと思われる。

 対して明智光秀軍は最有力者である細川藤孝軍及び筒井順慶軍が中立の立場をとり、池田恒興・中川・高山が秀吉に与しその兵力は五分の三以上に減じた。山崎片家(やまざきかたいえ)・阿閉貞征(あつじさだゆき)等は味方したがその兵力増加はすこぶる低かった。その上光秀は四方を信雄・徳川家康・柴田勝家などその他諸々に囲まれていて各方面に兵の配置が強要された。その上明智軍の最有力部隊明智秀満(ひでみつ)軍が安土城守備に残る始末で、結局かなりの兵力が減少した。これが山崎・天目山を放棄した理由だと言えよう。

山崎の決戦

 六月十二日、待ち受ける光秀軍に対してその日富田にあった秀吉軍は軍儀で部署を決定すると全軍に対して明十三日に山崎に集結するよう通達し、先鋒は即座に進撃を開始した。

 これを受けて前方の中川・高山軍は山崎に向かい、高山軍は山崎の町を占領し交通を遮断した。これと争うように中川軍はこの日遅く天王山を目指しこれを占拠。この際明智軍の足軽と小競り合いをしている。戦闘の内容はほとんど鉄砲の撃ち合いに終始した。こうして秀吉軍は天王山に中川、高山が山崎、羽柴秀長が天神馬場に陣し本隊は富田という布陣となった。

 翌十三日、光秀軍は秀吉軍に対応して下鳥羽から、勝竜寺城の南南西600メートル地点にある要害・御坊塚に本陣を移した。前進してくる敵を隘路で防備を堅くして支え、精鋭でもってその一角を崩し後方を撹乱しつつ敵司令部を強襲するのが劣勢の光秀軍の唯一の作戦である。

 一方秀吉軍はこの日も富田で兵力結集に努め、正午頃織田信孝が淀川を渡って合流すると一挙に突入する機会を狙った。

 雨の降る中午後四時頃、天王山東麓の中川軍の進出に対して圧迫を感じた光秀軍右翼先鋒が攻撃を開始した。『太閤記』によれば松田太郎左衛門・並河掃門(なみかわかもん)ら丹波衆である。この攻撃には2つの解釈があって、

1、 敵の有力な部隊を自軍の右翼に引き付けようとするだけの陽動作戦。
2、 相手左翼を劣勢と見て、これを攻撃することによって天王山を占拠して敵を包囲するまでいかないまでも、何らかの勝利の糸口を得ようとするもの。

 以上の様に光秀軍から積極的に動いたことがわかる。ところが秀吉はこうした明智軍の動揺をとらえて自軍の右翼を明智軍の左翼に突入させた。光秀軍は左翼が押し込まれついに包囲される形となり、ここにおいて秀吉は全軍に総攻撃を命じた。まず右翼川の手部隊池田軍の進撃が速やかに行われ、これにともない中央の高山・堀の諸隊が進出し左翼の軍も明智軍を押し込めた。光秀軍側は重臣の斎藤利三などが必死に支えたが伊勢・諏訪・御牧など戦死者が続出しついに総敗北となり光秀は勝竜寺城に退却した。

 皆さんもお気付きの通り山崎の合戦は戦闘が始まるとあっという間に決着し、その大方の理由は結局兵力差であったといえる。そこには天王山の争奪戦と言う華々しい戦闘はなかったと言える。天王山は確かに要衝だが既に光秀軍は放棄していたし、川の手部隊が進出しただけで秀吉軍は包囲に成功し、動揺した光秀軍に中央が押し出して決着がついている。天目山の争奪など、秀吉の右筆・大村由己の『秀吉事記(ひでよしじき)』にも竹中重門(半兵衛の子)の『豊鑑(とよかがみ)』など信頼できる書物に一行も出てこないのである。以上は主に『浅野家文書』と推測によった。 光秀は勝竜寺城から脱出した。その途中、小栗栖(おぐるす)で討たれたと言われるが、定かではない。『日々記』には「勧修寺在所」とある。(醍醐寺付近)

 6月14日主(あるじ)無き坂本城は、秀吉方の堀秀政に攻められ、宿老明智秀満らが自刃して落城する。その時明智一族も運命を共にし、滅亡した。

 秀吉はこの戦いと6月18日清洲(きよす)会議によって多くの権益を確保し、天下人として大きく踏み出すのであった。

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