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7、なぜ原因がわからないのか

 

 これまで述べてきたように、本能寺の変に原因については、どの説においても決め手を欠き、どうもはっきりしないのである。ここでは、すり替え論的なところが否めないが、一歩踏み込んでなぜ原因がわからないかについて論述したい。(ここではどの説にも可能性があると仮定する)
 まず挙げられるのは何かというと、これは各黒幕説にいえるのだが各勢力との接触を示す書類が隠滅された恐れがあることである。一番はじめに説明したとおり本能寺の変の後、天下をとったのは秀吉である。その秀吉に光秀との関連を追求されて、返答を窮するのを避けるために意図的に消してしまった可能性が考えられる。それは朝廷にしても、毛利や長宗我部や上杉など各勢力についてそれが考えられる。事実、光秀に近かった吉田神社の神官・兼見(この時は兼和)は光秀が討ち取られると1582年の日記を全て書き換え、その書き換えた日記には光秀との交流が削除されている。しかし光秀に計画性があって事前に連絡があったとする藤田達生氏の説が事実ならば、明確にそれらしき書状が、毛利や長宗我部(ちょうそかべ)などに見つかってもおかしくはないはずである。
 次は怨恨、野望、悪逆非道、四国問題対立説にいえることであるが、光秀の事前の心情・展望を展開したものがないことである。しかしこういうものがある方が稀少な例であり、本能寺の変についても仕方ないことである。冷静に考えてみると、事前に手紙を出しておいてそれが万一信長に見つかったらどうなるのか。しかし、本能寺の変後に今まで信長に従ってきた連中(雑賀衆・美濃など)が間髪入れずに行動を始めていることから考えると水面下でいろいろと連絡があった、とも考えられなくもない。ただそれにしても事前に光秀の心情・展望を記したものがほとんどない。
 読者の皆さんは小説や何かでそういうものがあると思われるかもしれない。しかしそれらは、作家や学者先生が勝手に想像したものであって裏付けは薄い。

 またここで愛宕百韻の、「ときはいまあめがしたしるさつきかな」が挙がるかもしれない。だがこういう連歌というのは、文字数が少ない代わりに読み方が多量に出てしまうのである。これは前述したとおり(p.46参照)いろいろな読み方があってどれも根拠には説得力がないわけではない。しかし連歌だけで考えると解釈を一つに絞ることはできないと言わねばならない。

 確かに小和田哲男氏は現存する手紙から「信長父子の悪虐は天下の妨げ」というフレーズを見いだしている。しかしこれは本能寺の変直後の手紙であり、謳い文句的なところが拭えないのである。この書状は光秀が美濃の武将に勧降工作をしたものであって、そこには自分の味方につけたいわけだから、相手を悪くいって自分の正当性を主張せねばならない。だからこれは勧降目的の謳い文句であり怨恨、野望、悪虐非道防止などの根拠にならない。

 さらに考えられるのは、信長・光秀が確固とした政権構想をはっきりと示す前に死んでしまったことである。信長は長い間政権を握っていたがその政権構想で有力ものには正反対のものもあり、断言できない。かりに1582年4月の三職推任(征夷大将軍、太政大臣、関白のうちどれかに任命する)の答えが出ていれば構想はある程度わかったのではあるまいか。しかし答えを出す前に信長は本能寺で討ち死にしてしまった。

 信長は十四年間政権を握っていたのに構想がわからなかった。ましてや光秀に至ってはわずか十三日でそれがわかるであろうか。光秀の政権構想については

@なかった A朝廷推戴(すいたい) B足利義昭推戴 C光秀自ら政権を握る

 などたくさんあるが、@は否定されているが、A〜Cは否定する事も肯定する事もできない。勿論それは史料の少なさに起因するのだがそれ以前の問題として光秀の政権掌握期間に短すぎるということがその根本の原因ではなかろうか。

 本能寺の変は未だ原因がわかっていない。しかし史料の発見・再発掘に伴い、研究が進展してきた。だが今の研究では行き詰まってしまっているのが実情である。この事件を解くカギは勝手な推論でも小説家の自由奔放な史観でもない。新史料の発見・再発掘であると確信している。

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