5、本能寺の変の難解な人物

 

 「三、本能寺の変の各説」以降を見ていただければわかるが、読者の皆さんにはそこには初見の人物が多くいるだろう。ここではそれらの人物と謀叛を起こしたとされる明智光秀についてごく簡単な略歴を述べるから、以後の参考にして頂きたい。生没年の次の()はキーマンとなっている説を示す。
明智光秀 (?〜1582)

 安土桃山時代の武将。土岐源氏分家らしいが生年、父の名前などはっきりしない。諸国を放浪したというのは『明智軍記(あけちぐんき)』※5の創作である。その後、越前朝倉氏に仕えたらしい。1568年の信長の上洛のころから信長に仕えるようになるが、足利義昭の家臣でもあったようである。光秀は信長と義昭の両者につかえ、その間をとりもつかたちで京都の政治などにかかわった。比叡山焼き討ち・近江平定戦で活躍し、73年の義昭の追放後は、信長の有力な部将として戦果をあげ、近江坂本城、丹波亀山城などをあたえられて丹波攻めを担当した。(75〜79年)平定後京都の要衝をおさえて美濃・近江・丹波の諸侍で家臣団を形成した。75年、「惟任(これとう)」という九州の名族の名乗りをもらい日向守(ひゅうがのかみ)に任じられる。

 1581年馬揃(うまぞろ)えの奉行を務める。この年、佐久間信盛(さくまのぶもり)が解任され、その折檻(せっかん)状の中で光秀は第一の功績とされている。この年四国政策の主導権を秀吉に奪われる。(「二、本能寺の変時の状況」)。

 1582年、光秀は甲州征伐に随行する。そこで数々のショックを受けたといわれるが、それはよくわからない。甲州征伐からもどった光秀は、家康の饗応(きょうおう)役を無事務める。そして羽柴(豊臣)秀吉の支援を命令されて出陣する途中、京都本能寺を奇襲して主君信長を殺す。(本能寺の変)、ついで信長の長男信忠を二条城でたおした。しかし、ただちに反撃してきた秀吉に山崎の戦でやぶれ、敗走中殺害された。 細川忠興の妻となったキリシタン女性ガラシャは光秀の娘である。

近衛前久(このえさきひさ)(1536〜1612)
(立花京子氏の朝廷黒幕説)(藤田達生氏の義昭黒幕説)

 戦国時代の公家。稙家(たねいえ)の子。内大臣,右大臣、関白を歴任し、将軍足利義輝の姻戚であったため武家とも交際があった。諸国に下向した後、島津・織田両氏の間を斡旋(あっせん)し、本願寺顕如と織田信長との和平に尽力するなど,織田政権に協力的であった。本能寺の変後は再び京都を離れて徳川家康のもとに赴いた。

吉田兼見(よしだかねみ)(1535‐1610)
(立花京子氏の朝廷黒幕説)

 初名兼和。従二位。吉田神道の宗家として公武の神事祈裳(しんじせきちゅう)をつかさどり,織田信長・豊臣秀吉らとも交渉があった。その日記『兼見卿記(かねみきょうき)』には神事関係以外にも政治情勢,社会,文芸など多方面の記事が含まれ安土桃山時代の重要史料である。

誠仁親王(さねひとしんのう)(1552〜1586)
(立花京子氏の朝廷黒幕説)

 正親町天皇(おおぎまちてんのう)の第1皇子。幼少より皇院と定められ,1586年には受禅が内定したが,事の行われるのに先立ち病により没した。織田信長の猶子となり,また本能寺の変には居所二条殿が襲撃されたが,危うく難を免れた。

本願寺教如(きょうにょ)(1558〜1614)
(藤田達生氏の義昭黒幕説)

 安土桃山〜江戸初期の浄土真宗の僧。顕如の長男。1570〜80年の石山合戦では父とともに織田信長と戦い、和睦後も寺内にとどまり再挙のかまえをみせた。豊臣秀吉に隠居させられ後に東本願寺を別立する。

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