2、本能寺の変時の状況

 

ここでは読者の皆さんが一番知りたいであろう本能寺の変の原因について考察する。本能寺の変は

@社会状況
A個人の動機

と二つの要素が密接に絡み合っている。ここではまず @社会状況 つまり織田信長の位置、諸将の配置などについて論述する。 A個人の動機 は「3、本能寺の変に関する各説」を参照。

(1) 北陸道(越前・能登・加賀・越中)

 1573年8月、信長は自ら大軍を率いて越前に乱入し、同国の一向一揆を壊滅させた。そして9月に、越前の仕置きを定めた。体制は以下の通り。

総帥=柴田勝家、武将=前田利家・佐々成政(さっさなりまさ)・不破(ふわ)光治・金森長近・原長頼

 この軍団は「一向一揆・上杉謙信の連合軍」の前に初めは苦戦する。織田の精鋭を動員した「手取川の戦い」でも、上杉軍の猛威に恐れをなして越前に撤退するなど、上杉謙信と正面から戦っても勝算は薄いと見て、守勢に立ったのである。

 しかし、1578年3月に謙信が病死、また多方面でも織田軍は進撃を続ける。これにより、北陸の織田勢は攻勢に転じ、これに国人衆が応じたため、一向一揆・上杉軍を撃破、加賀・能登・越中西部を版図に加える。本能寺の変直前の体制は、

柴田勝家(総帥)=越前・加賀、前田利家=能登、佐々成政=越中

 1582年には、越中東部の魚津・松倉城をめぐって攻防を繰り広げていたが、この陣中で、「本能寺の変」の報を受ける。

   柴田勝家は、この報を受け、越中東部から撤退して領国に帰ったのちに上洛しようとするが、北陸の情勢がこれを許さなかった。すなわち、上杉軍が越中の奪回に乗り出し、越中・能登の諸侍・一向一揆がこれに通じたために領国が不安定になり、この鎮定に追われて、秀吉に先を越されたのである。

(2) 東山道(信濃・甲斐・上野)

 1582年3月、織田信長は武田氏を滅亡させると、旧武田領の統治支配を以下の武将に任せた。

滝川一益(かずます)(総帥)=上野・信濃(小県(ちいさがた)・佐久郡)、
河尻秀隆=甲斐・信濃(諏訪郡)、森長可
(ながよし)=信濃(高井・水内・更科・埴科郡)、
毛利秀頼=信濃(伊奈郡)、木曽義昌=信濃(安曇
(あづみ)郡)

 彼らは皆、旧武田家臣・領民を従え、東国に睨みを利かせるという重要な課題を担っていた。この中でも滝川一益は、北条に対する最前線の武将として上野・信濃の武将を糾合し、そして、いずれは北条氏を降して関八州を支配する(信長公記)という任務に向け努力していた。

 しかし本能寺の変で状況は一変する。各国で領民・土豪・国人衆が不穏な動きを示し、領土が不安定になった所に徳川・北条が触手を伸ばす。これにより、滝川一益が北条軍に大敗し(神流川(かんながわ)の戦い)、河尻秀隆が徳川の煽動した一揆の襲撃を受けて戦死、残りの武将も撤退するなどして、織田家の東山道の支配体制は崩壊した。  

(3)東海道(三河・遠江・駿河)

 徳川家康は、武田家の滅亡に功績があったとして、従来の三河・遠江に加え、信長に駿河を与えられ、加増のお礼に安土に赴き、さらに上方見物のために畿内に入っていたが、6月2日和泉の堺において本能寺の変の報に接した。

 家康は伊賀の山中を越え、土豪の襲撃を切り抜け、苦労しながら伊勢の白子から伊勢湾を渡って三河に帰る。そして直ちに光秀討伐の軍を起こす一方、甲斐の武田氏旧臣に向かって所領安堵状を発行し領土の拡大を狙った。この結果、光秀討伐では秀吉に遅れをとったものの、甲斐・(さらに進撃して)信濃を新たに領地とした。  

(4)中国(播磨(はりま)・備前・(美作)・但馬(たじま)・因幡・伯耆(ほうき)・淡路)

 1577年10月、信長の命により、羽柴秀吉は中国遠征を開始する。姫路城に入って播磨を平定すると、余勢を駆って但馬・備前を攻略する。しかし、1577年2月、三木城の別所長治(べっしょながはる)が寝返り、7月に尼子勝久が守る上月(こうづき)城が陥落、摂津有岡城の荒木村重が寝返り、毛利水軍に大敗を喫するなど戦況は一気に不利になる。 これに対し、信長は智略を尽くし、荒木村重軍を壊滅、木津川口の海戦で毛利水軍を撃破、本願寺を開城など、畿内周辺を平定する。これで、後顧の憂いをなくした秀吉は毛利勢に対し攻勢に転じて快進撃を続け、1582年には備中の攻略を目指していた。本能寺の変直前の体制は以下の通り。

羽柴秀吉(総帥)=播磨、宇喜多直家=備前、羽柴秀長=但馬、
宮部継潤
(けいじゅん)・亀井茲矩(これのり)=因幡(鳥取・鹿野)、
南条
(なんじょう)元続=東伯耆、仙石秀久=淡路

 本能寺の変の報を受けた後、秀吉はこの事実を毛利側には伏せたまま、講和交渉を行い、高松城を開城した。そして、直ちに軍を返して光秀討伐を果たし、天下人としての第一歩を踏み出したのである。

(5)近畿(丹波・丹後・山城・大和・摂津)

 光秀は、信長が義昭を擁して上洛する時に配下となり、京都を中心とする畿内の政治に携わり、大きな功績を挙げた。そして、信長から畿内平定という軍事的指令を与えられた。光秀は圧倒的な数の軍勢を動員し、包囲・持久戦により各地の反織田勢力を下す。この結果、光秀は畿内の軍事的支配を任される。体制は、

明智光秀(総帥)=丹波、細川藤孝=丹後・山城(勝竜寺(しょうりゅうじ))、
筒井順慶
(じゅんけい)=大和、池田恒興・中川清秀・高山右近=摂津(伊丹・茨木・高槻)

 光秀は、本能寺の変後、畿内の諸将に応援を頼んだが、細川・筒井に見放され、池田・中川・高山と敵対することになり、直属の配下のみで戦うという苦境に追い込まれ、敗北の原因となった。

(6)信忠軍団(尾張・美濃)

 織田信忠は、1573年11月に織田家当主の地位と尾張・美濃の支配権を与えられる。この後、信忠は、松永久秀の討伐、中国地方の羽柴秀吉の救援などにおいて、総大将として織田家の有力武将を率いて戦うことが増えた。また、武田氏討伐では、配下の河尻秀隆・毛利秀頼・森長可らが信濃・甲斐に封じられる。このように信忠は、信長の跡継ぎとして確実に力をつけていったのである。    しかし本能寺の変が勃発すると、京都にいた信忠は二条城に入って明智軍と戦う。しかし、衆寡敵せず、敗れて自刃する。これにより、柱を失った領国の支配体制は脆くも崩れ去った。

(7)その他の国々(近江・伊勢・伊賀・志摩)

 近江は、各方面に街道が走っている交通の要衝であり、信長もこの国に安土城を建設して、本拠とした。従って、この地には信長の側近の武将や、羽柴・丹羽・明智など重臣の武将が少しずつ領地を持っている状態であった。  伊勢は、北部を滝川一益が、南部を織田信雄・信孝・信包ら一門衆が領土としていた。彼ら一門衆は、信長の政略によりそれぞれ北畠・神戸・長野という当国の名跡を継ぎ、支配を固めた。  伊賀は、織田信雄が1581年9年に平定に成功、同国のうち三郡を与えられた。  志摩は、九鬼嘉隆が一国支配していた。彼は水軍の将として活躍し、木津川口の海戦では、毛利氏の水軍を大いに撃破し、大阪湾の制海権を握った。   本能寺の変の後、光秀は近江を平定して柴田・徳川らの反撃を防ごうとした。この平定作戦は部分的には成功を収めたが、畿内諸将が来援しなかったため、結局各地に兵を分散した形になり、秀吉との決戦に寡勢で挑まざるを得なくなった。  また、伊勢の織田信雄は、本能寺の変を聞き直ちに光秀討伐を開始したが、領国に光秀の手による一揆が起きたため、これを鎮圧するのが精一杯で、秀吉に先を越されてしまった。また、伊賀・志摩には大きな動きはない。

(8)四国平定軍(若狭・和泉・河内・北伊勢など)

本能寺の変の状況を語る上で四国問題は欠かすことができない。光秀は丹波(京都府)攻略に励む一方、織田政権と長宗我部(ちょうそかべ)を結びつける取り次ぎとなっていた。

 まず、1575年と思われる書状を紹介しよう。(『増補織田信長文書の研究』下巻)

惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)(=光秀)に対する書状披見せしめ候、よって阿州(阿波)面在陣もっともに候、いよいよ忠節を抽()きんぜられるべき事肝要に候、ついで字(あざな)の儀、信これを遣し候、すなわち信親しかるべく候、なお惟任(=光秀)申すべく候なり、謹言、
   十月廿六日                                 信長
   長宗我部弥三郎(ちょうそかべやさぶろう)殿

 75年土佐を統一した長宗我部元親は、次は三好のいる阿波攻略を目指し、信長に接近する。書状では信長が元親嫡男に一字を与え、信親という実名を得た事が示されている。この時期信長が長宗我部と結んだのは、抵抗する三好や毛利に備えるためであった。

 しかし1581年両者は断交する。6月こんな書状がもたらされた。(出典は同上)

三好(みよし)式部少輔(しきぶしょうゆう)の事、この方に別心なく候、しかれどもその面において相談せられ候旨、先々相通ずるの段、異儀なきの条珍重に候、なおもって阿州面の事、別して馳走専一に候、なお三好山城守申すべく候なり、謹言
   六月十二日
   香宗我部(こうそかべ)安芸守(親泰(ちかやす))殿             (信長朱印)

   これは元親の実弟・香宗我部に三好式部少輔を補佐して阿波の支配を行うよう命じたものである。三好康長はこの頃すでに信長に属しており、この前年に石山本願寺が撤退したことにより、畿内における反信長勢力は紀州惣国(そうこく)一揆だけになった。つまり75年とは状況が異なっていたのである。75年書状は長宗我部の阿波支配を了承するが、81年書状は長宗我部の敵・三好をたてて阿波を支配するよう言っている。ここに政策の転換が見られる。

 この政策転換に、織田家中の光秀と羽柴秀吉との抗争が表れたのである。光秀は長宗我部の取り次ぎ、秀吉は三好の取り次ぎであった。従って秀吉が信長に四国政策変更を求めた可能性は高いのである。しかも長宗我部断交後、秀吉は淡路と阿波を攻撃している。81年までに秀吉の働きにより、淡路・阿波は信長の勢力圏に入る。先に取り次ぎをしていた光秀は形無しである。長宗我部は押されていて、その敗北は取り次ぎ役の光秀の発言力の低下につながるのは、誰にでも予想できた。

 さらに82年5月7日書状には織田信孝(信長三男)が四国征伐に従事することが決められ、光秀の立場はさらに苦しくなる。

 つまり、四国問題とははじめ光秀がやっていたことが、あとから秀吉にとられ、光秀の栄光に陰りが見え始めたものである。

 1582年5月、信長は「四国平定軍」を編成、この体制は、

織田信孝(総帥)=伊勢(神戸)、丹羽長秀(にわながひで)(補佐)=若狭、
津田信澄
(のぶずみ)=近江(高島郡)、蜂屋頼隆=和泉(岸和田)、三好康長=河内(高屋)

 これらを見れば分かるように、この軍団は地理的にも離れた国から寄せ集めて作った軍団であった。そのため、本能寺の変の報を受けて動揺し、配下の兵は大半が逃散して、軍団は消滅してしまった。

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