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1、本能寺の変の概要

 

読者の皆さんの中にはご存じの方も多いと思うが、本能寺の変とは
「1582(天正10)年6月2日、明智光秀が京都の本能寺で織田信長を襲撃して自殺させた事件。」
である。この事件はどうして有名か。それは

@当時日本でトップクラスの権力を誇っていた織田信長が暗殺された。
A織田信長を殺した明智光秀の動機が謎に包まれ、事件の全貌がよくわからない。

と言うことが主要な原因になっているであろう。ごれにより織田信長の「天下布武」は頓挫してしまい、後の太閤・豊臣秀吉が謀叛した明智光秀を討って足場を固めるのである。だから歴史的にも政治的にも日本戦国史においてどうしても外せない重大事件である。

 この事件の解明は次章以降で深く吟味するから、ここでは簡単に事件の流れを説明しようと思う。

 織田信長は1534年尾張(現愛知県)の大名・織田信秀の子として生まれる。信長は青年時代奇行が多く「うつけ」と呼ばれていたらしい。信秀死後、織田家中は混乱するがその中で若き信長は苦戦するが巧みに戦い、尾張を統一する。

 1560年、桶狭間において今川義元を討ち取り、68年には美濃(現岐阜県)を8年掛けて制圧する。そうすると、越前(現福井県)にいた前将軍の弟・足利義昭を奉じて上洛する。この頃、後謀反を起こす明智光秀は信長に仕えている。

 上洛後は、「天下布武」に邁進(まいしん)し、畿内の諸勢力と抗争を繰り広げる。一方将軍・足利義昭と対立し義昭は朝倉・浅井・武田などに書状を使わして信長包囲網を形成する。そして大坂の本願寺も信長と断交する。信長はこれらの包囲網の中で窮地に陥るが、朝廷に工作して講和を結ぶ。

 しかし、講和は続かずまた争いとなる。その中で73年、信長は有利な状況を作り出した。まず幸運にも武田信玄が病死したのである。そしてこの年、浅井・朝倉を滅ぼし、足利義昭を京都から追放した。

 信長は75年には武田を長篠で破り、政権を更に安定させる。そして76年には安土城築城に着手する(79年完成)。信長は70年に比叡山を焼き討ち、74年には長島一向一揆を、75年には越前の一向宗を皆殺しにするなど次々と敵を滅ぼし、80年には11年間抗争を続けた大坂の石山本願寺と講和して、石山から退去させた。

 この時点で信長の勢力基盤はだいたい安定したといえる。そして81年には京都で馬揃(うまぞろえ)という軍事パレードのようなものを行っている。

 そして運命の82年3月、まず信長は宿敵・武田氏を滅ぼす。その後安土へ戻り明智光秀に中国地方で奮戦している羽柴(豊臣)秀吉の援軍として出陣を命じた。

 信長はみずから中国地方へ向かうため、安土をたって京都本能寺に宿泊した。光秀は居城である近江坂本城(滋賀県大津市)から丹波亀山城(京都府亀岡市)へはいり、ここで約1万3000の軍勢をととのえると6月1日夜10時ごろ出陣したが、途中、家臣に本意をつげるとにわかに軍を京都へむけ、2日未明に本能寺をかこんだ。

 そのとき信長の有力部将たちはいずれも畿内をはなれており、信長の周辺にはわずかに小姓(こしょう)衆ら近習だけでほとんど無防備だった。信長は森乱丸らと防戦したがかなわず火中で自殺。父よりはやく上洛して妙覚寺にいた長男の信忠も誠仁(さねひと)親王の二条御所にうつって光秀の兵と戦ったが自殺した。光秀は同日坂本城にもどり、ついで安土城を接収すると畿内の経営にあたり、ある程度成果を上げたが、細川幽斎(ゆうさい)(藤孝)・忠興父子、筒井順慶(つついじゅんけい)ら摂津の諸将は予想に反して味方につかなかった。

 その間に中国地方で毛利氏と戦っていた羽柴秀吉は、本能寺の変の報を聞くと急ぎ毛利氏と和議を結び、光秀討伐の軍勢を素早く畿内へと進めた。その行動は「中国大返し」と呼ばれている。そして6月13日、光秀は秀吉に山崎の戦でやぶれ、敗走中に土民に殺された。光秀の三日天下といわれるが、2週間ほどの天下だった。
 この一連の事件で、羽柴秀吉は主導権を握り、直後の清洲(きよす)会議(信長の後継者相談)で優位な位置につくのである。そして83年には北陸のライバル・柴田勝家(しばたかついえ)に勝利し信長死後の実権をほとんど掌握する。後に関白となる秀吉にとって、本能寺の変はその糸口となる事件であった。
 先ほど言ったとおりこの事件の全貌は謎に包まれている。我々は次章以降でそれらを詳しく解説・吟味し本能寺の変の全貌を少しでも明らかにしようと尽力したつもりである。

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