6、秦の統一国家と楚漢の争い

 

 始皇帝は中国全体中央集権制を敷き、法を原理とした精密な官僚組織の網の目で全ての人民を包み込んだ。始皇帝自身が「朕」という一人称を専有し、中華におけるただ一人の権力者となった。彼は郡県制の導入、文字・度量衡(どりょうこう)・貨幣の統一、何回もの東方巡幸を行うなど天下のあるじとしてふさわしい政策を行なっていたが、一方で焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)(始皇帝は法家であったのでそれと相容れない儒者を生き埋めにしたり儒書を集積し、燃やしたりしたこと)や驚くべき規模の土木工事を行い、人々は重税を取られ、万里の長城や王宮などの建設に駆り出され、怨嗟(えんさ)の声は高まっていた。
 始皇帝が亡くなった翌年の前209年に陳渉(ちんしょう)・呉広(ごこう)の乱が勃発すると、これを契機として各地の亡国(楚(そ)・趙(ちょう)・燕(えん)・斉(せい)・魏(ぎ))が復活を唱え、秦の統一はもろくも瓦解するかに見えた。しかし翌年には秦の名将・章邯(しょうかん)の大部隊が陳渉軍を撃破、それに続き当時最精鋭を誇っていた楚の項梁(こうりょう)軍を定陶において粉砕する。破竹の勢いの秦軍はさらに趙を鋸鹿(きょろく)に包囲する。ここで天下の反乱軍は一気に鎮圧されるかに見えた。

 しかし項梁の甥である猛将・項羽(こうう)率いる楚軍が圧倒的兵力を有していた秦軍相手に奇跡的大勝利を博し(鋸鹿(きょろく)の戦い)、秦の主力軍の壊滅により反乱軍は一気に秦の本拠地・関中に攻め込む。最初に関中入りして秦都・咸陽(かんよう)を陥落させたのは劉邦であったが、鋸鹿の戦いに勝利した項羽が彼に取って代わり、項羽が事実上の覇者として中国に君臨した。しかし彼の論功行賞への不満から、各地で反乱が相次ぐ。漢中王に封じられていた劉邦も前206年、関中の地を制圧し、前205年には56万もの大軍を率いて楚の都・彭城(ほうじょう)を占領する。しかししかし劉邦軍(漢軍)は突如として来襲した項羽軍3万に殲滅され、漢は以後、関中と東方平野部との境界である?陽(けいよう)・成皋(せいこう)の線まで後退し、この地で楚漢両軍の対峙が続くことになる。

 一方、漢将・韓信率いる漢の別働隊は黄河の北に渡り、目覚しい勢いで楚の勢力を駆逐してゆく。前205年に魏を打ち破り、さらに続く井?(せいけい)の戦いでは「背水の陣」を敷いて趙に大勝する。そしてその翌年、韓信は斉の七十余城を陥とし、斉の援軍として駆けつけた楚軍も撃破した。韓信は巨大な第三勢力として成長し、以後自立の動きを見せ始める。

 こうした中、前203年、?陽(けいよう)・成皋(せいこう)ラインでにらみあっていた楚漢両軍は「和議」を結ぶ。楚は軍事的には優位に立ちながらも後方の補給線を絶たれるなどしてかなり疲弊していた。これを好機と見た漢軍は約に背き、東方に撤収する楚軍を追撃した。楚軍は広大な封地を約束されて駆けつけた韓信や彭越(ほうえつ)らの軍にも包囲され、垓下(がいか)の地に追いつめられる。漢の大軍は楚軍を撃破し(垓下(がいか)の戦い)、最後の決戦に敗れた項羽は烏江のほとりで壮絶な最期を遂げる。こうして楚漢の一大決戦は幕を閉じるのである。

 漢は中国統一後、功臣粛清を行い、郡県制に基づいた中央集権を固める。劉邦存命中に漢はそのころ強大な軍事力を持っていた北方騎馬民族・匈奴(きょうど)に貢ぎ物をして和を請う。この間に国力を貯えていた甲斐あって、漢は前二世紀後半の武帝の時に黄金期を迎える。武帝は匈奴・西域を攻め、領土を広げた。このころ司馬遷によって 書かれた「史記」はわれわれに中国古代の歴史を詳しく伝えてくれている。漢王朝は一時は王莽(おうもう)の大規模な反乱を許したりもしたが、約400年間続き、そして3世紀に入って中国は激動の三国時代を迎えるのである。