5、七つの強国が覇を争う戦国時代
春秋時代末期から呉越・楚において鉄の質が大きく向上した。これらは大量に生産されるようになり、鉄製の農具の普及により土地の生産能力は飛躍的に高まった。また、農業技術の進歩により諸侯は新しい土地を開墾できるようになり、それを直接行なう家臣は功績を得、権利を主張するようになった。戦国時代では諸侯に仕えている有力な家臣がますます有力となり、国家の簒奪(さんだつ)が行なわれた。超大国の晋が魏・韓・趙の三人の大夫に国を乗っ取られ、領地を引き裂かれたことや、斉の田氏による簒奪は有名な話である。 |
戦争の形態は戦車戦から歩兵戦に変わっていった。春秋期には戦争を担当していた貴族たちは没落し、戦国時代の歩兵戦では庶民たちが主役となった。歩兵戦が主流となったことにより、戦争の規模が大きくなった。さらに、乱世とはいえまだ牧歌的なところのあった春秋時代の戦と異なり、食うか食われるかの熾烈な争いとなっていった。争いに敗れた国は亡国となり、いきおい強国の数は限られるようになった。戦国七雄、すなわち秦・斉・楚・魏・韓・趙・燕の国々が限られた強国として戦国時代の覇を争った。 |
このように戦国の争いは国家の存亡がかかるものとなり、どの国も富国強兵策を打ち出した。そして富国強兵のために各国が有能な人材を登用した。これらの人材集めの先駆者とも言える魏の文公は、子夏、呉起といった富国強兵に役立つ実務家達を集め、戦国初期の強国として興隆する。 |
これに習い、斉では天下の学者、思想家を集め、自由な討論をさせた。彼らは人々に「稷下(しょくか)の学士」と呼ばれ、彼らが稷下で論争していた様は「百家争鳴(ひゃっかそうめい)」と言われた。諸子百家(詳しくはp138参照)と呼ばれるさまざまな学説を持つ学者たちが一堂に会したのである。稷下(しょくか)の百家争鳴期は、中国の学問・思想の黄金時代であったといわれる。 |
さて、最初に強国となった魏は、隣国の趙、韓への侵攻を進めるが、趙・韓の救援要請を受けた斉と戦い、大敗する。(前341年 馬陵(ばりょう)の戦い)魏はその後西方の秦にも敗れて大国の地位から転落する。そして魏に代わって斉・秦の東西両大国が新たに台頭してくるのである。ここで戦国初期〜中期の各国の状態を簡単に説明したいと思う。 |
秦:
この国は新興の国で、他の伝統ある国に比べ思い切った改革がやり易かった。法家の公孫鞅(こうそんおう)(商鞅)が君主の孝公に抜擢され、彼は秦を法による全体主義国家へと改造した。法を絶対のものとすることにより、内政は整い、国力が上がり、厳格な規律のもと軍隊は強くなった。のちの天下統一の基礎がこの時期につくられた。 趙:武霊王の「胡服(こふく)騎射」により軍事力が増大した。「胡服騎射」とは、北方民族の騎馬戦法を採用し、そして戦争の時の服装を馬に乗る為にそのころ野蛮とされていた「胡服」という服装に改めたことである。趙は古い国柄で、旧例を改めるのは大変だったという。 燕: 燕国内の内訌に乗じて斉に攻められたが、その後昭王は郭隗(かくかい)の「先(ま)ず隗(かい)より始めよ」という助言を取り入れて賢能の士を招き、そのうちの一人、楽毅(がっき)将軍は前284年、斉の七十余城を陥落させ、斉を震え上がらせた。 斉: 燕に大勝し、宋を併合するなど強大化の一途を辿っていたが、度重なる戦争は国内を疲弊させていた。こうした中、燕を中心として対斉包囲網が結成され、前述の通り斉は前284年、燕将・楽毅率いる五カ国連合軍に攻め込まれ、壊滅状態に陥る。その後斉は田単将軍の活躍によって再び国土を回復する訳だが、斉には既に昔日の勢いはなく、西方の巨人・秦が唯一の超大国として東方の諸国に臨むという新たな図式が成立したのである。 韓: この国は戦国七雄の中でも最弱国で、印象の薄い国である。その中で申不害が宰相となった十五年間は韓が最も強勢であった頃だといわれている。彼は常に君主の顔色を伺い続けた人であったが内政・外交とも失点がなく、評価されるべき人物である。 楚: 呉越を併合して国土は天下の半分近くを占めていたが、激しい派閥抗争が続き、秦に遅れをとった。 魏: 初期には興隆したものの、各国に囲まれているという立地条件の悪さから結局押さえ込まれてしまう。 |
繰り返すようだが、この時代人材は非常に大切であった。各国の王だけでなく、貴族たちも人材を集めようとした。有力な貴族は数千の食客(一芸に秀でた人・任侠の徒など)を抱えていた。「戦国四君」(詳しくはp145参照)と呼ばれる人達はその代表と言える。 |
秦は公孫鞅の死後も法治国家体制によって強大化の一途をたどり、楚の上流の方の蜀の地を併呑した。これにより秦は楚を易々と攻めることができるようになり、また派閥抗争に明け暮れていて蜀を押さえておかなかった楚はみすみす天下統一のチャンスを秦に与えることになった。 戦国の世に「縦横(しょうおう)家」と呼ばれる人々がいた。これは諸侯の間を奔走し、遊説してまわった策士のことである。彼らのうち代表的な者は蘇秦と張儀という者であった。蘇秦は秦以外の六国が連合して秦に当たろう、という合従策を説き、それを切り崩そうとした秦は六国と単独講和を結び、各個撃破を狙う連衡策を採用し、その推進者は張儀であった。 |
楚では、親斉派、親秦派の2派が争い、また楚の懐王が暗君であった為、楚は張儀のいいようにされてしまった。張儀は「方六百里の土地と美女を与える代わりに斉と断交してほしい」といい、懐王はそれを受けた。屈原などの臣が王を諌めたが、聞き入れられなかった。斉は断交されたことを怒り、秦と結んで楚を攻撃・撃破した。そのとき張儀は与えるのは方6里の土地だと欺いたのである。
公孫鞅の中央集権的政策、四方を要害に囲まれた地の利、連衡策や范?(はんしょ)による遠交近攻策などの巧みな外交政策、強い軍隊、などなどを持っていた秦に対抗し得る国は、北方の趙国のみとなった。趙は前270年、閼与(あつよ)の戦いにおいて秦軍に勝利し、秦の天下統一策に大きな打撃を与えていた。そして前260年、秦・趙二国間で争われた長平の戦いは、戦国時代最大の戦いであると同時に、以後の趨勢を決定づける重要な戦いであった。秦の名将・白起の前に趙は大敗し、趙兵四十余万は坑殺されたのである。趙が敗れたことにより秦に独力で対抗できる勢力は存在しなくなった。 以後は、秦が圧倒的な軍事力を背景として東方諸国を各個撃破して統一を実現してゆく。そして前221年最後に残った斉国が滅ぼされた時、200年に及ぶ戦国時代は幕を降ろし、代わって始皇帝による中華初の統一国家が誕生したのである。 |