4、諸侯が群雄割拠した春秋時代
周王室が東周となって、幽王のころから宰相をつとめていて専横を行っていた鄭(てい)は周の平王やその子の桓(かん)王に疎まれ、ついに桓王に兵を向けられる。これが繻葛(じゅかつ)の戦いと呼ばれるもので、前707年、周の桓王率いる連合軍と鄭の荘公率いる軍が合いまみえた。これは春秋時代中唯一行われた周王による親征であったが、周の桓王が肩を射られて負傷するなどして連合軍が敗退する。これにより、周王室の権威はまさしく地に堕ちた格好となった。 |
東周を破った鄭はしばらく周王室のこと(鄭は周の側近になっていた)や中原のことをリードしていた。しかしその鄭も内訌(ないこう)によって力を落とし、やがて天子にかわって諸侯を統率する覇者たちの時代がやってくる。前7世紀は、覇者が台頭してくる時代であった。覇者とは、統制力を失った周王朝に代わって天下の諸国を統制する強大な力を持った諸侯のことである。覇者は武力を誇示して実力で他国を押さえ込むのではなく、周王室の宗主権を認めつつ、会盟の形式をとって諸侯をまとめてゆく。会盟は、覇者が提唱し、天下の秩序維持のために条約を結ぶ場のことである。覇者がこれをリードし、条約を結ぶとき牛耳を執って裂きその血をすすりあって誓いを立てたことから、ある組織をリードすることを「牛耳る」と言うようになった。 中原に覇者が生まれるようになった要因として、楚の強大化が挙げられる。楚は「荊蛮の地」と言われて、中原の人々達からは異民族扱いをされていたが、その野生的な力、楚人の勇敢さ、楚の地の肥沃さに加え、中原の文化を吸収したことにより肥大化し、当時周王室の王しか称することのできなかった王号を用いるようになった。この楚に対して危機感を抱いた中原諸侯は連合を考え、覇者を中心とする会盟が行われるようになった。覇者のうち代表的な者を「春秋の五覇」と呼び、ここではそのうち最も有名な二人を挙げてみる。(詳しくはp133参照) |
最初に覇者となったのは、斉の桓公であった。周王の側近であった鄭が衰え、次第に力を貯えて台頭した斉は、公位継承の内乱を治めて即位し、名宰相・管仲を従えた桓公のもと、黄金時代を迎える。 斉の桓公についで覇者のなったのは、晋の文公であった。斉も晋も中原の端に位置していた国であったが、斉が生活必需品である塩を産出して栄えたのに対し、晋は、文公の父の献公の頃から軍事力によって国を大きくしたのである。晋の文公が公子であった頃、晋国内では「驪姫(りき)の乱」が起こり、文公は亡命を余儀なくされる。彼は19年間もの間諸国を渡り歩き、ついに62歳の時、秦の援助により即位することになる。晋の文公は前632年、強国・楚と会戦を行い(城濮(じょうぼく)の戦い)、この戦いで晋の文公率いる連合軍が勝利したことにより、晋の文公は周王から覇者の任命を受けた。晋は文公の死後も?(こう)において楚と同様に頭角をあらわしてきた西方の秦を破り、楚と北と南に対峙し、楚と共に春秋期においての二大 超大国を形成する。また、東方の斉、西方の秦の二大国がそれを牽制する形でおり、どの国も決定的な力を持つには至らなかった。 |
晋・楚・斉・秦の四強時代となり、その間にはさまった鄭や陳といった小国は晋についたり、楚についたりと両面外交を余儀なくされ、そのための貢ぎ物に苦しんでいた。この時期は、南方から中原進出を狙う楚と、晋を中心とする国との争いが繰り広げられる。楚はたびたび北へ攻め上り、?(ひつ)の戦い(前597年)では楚が圧勝した。しかしその後の?陵(えんりょう)の戦いでは晋が勝ち、楚の中原進出をはばんだ。 このころ(前7世紀末〜前6世紀半ば)、諸侯の国内では実権が君主から家臣団に移ってゆく。これは、戦争を行いその功労者に賞、すなわち土地を君主の土地から削って与えなくてはならず、戦争が続くことにより君主の力が弱まり貴族や大夫(下級貴族・家臣)ら重臣の力が強くなる。君主の力が弱くなったことにより覇者は出現しなくなり、諸侯は国内の対策に手いっぱいで対外戦争の余裕はなくなっていた。そのようなときに宋の大夫の向戌(しょうじゅつ)が国際平和条約を結ぶことを提唱し、前546年、弭(び)兵の会と呼ばれる集いが催され、14カ国の大夫による楚・晋の停戦協定が結ばれた。 |
諸侯の実権が実力者(魯の三桓氏、斉の田氏、晋の六卿が代表的)の手に移っていたこの頃、孔子が尊敬したという鄭の子産や斉の晏嬰(あんえい)(詳しくはp136参照)らが実務家型の新実力者、すぐれた宰相として国を治めたのでこの時代を「賢相時代」とも呼ぶ。前6世紀頃のことである。また、貴族専横の世の中を無くし、理想の国をつくろうという思想、すなわち孔子による儒教(詳しくはp138参照)が生まれたりもした。 その後、呉と越という南方(楚の東方)の2国は興隆する。呉は前506年、柏挙の戦いで楚の都・郢(えい)を陥落させるなど猛威をふるっていたが、呉と越は隣り合っていて「呉越同舟」や「臥薪嘗胆」という言葉にあるように互いに激しく争った。この二国は激戦の末、やがて滅亡してしまう。また、他の国でも家臣団が実権を握り、下克上の雰囲気が高まるにつれ春秋時代は終わりに向かう。 |
「春秋に義戦なし」という言い方があるが、これは春秋時代にいかに野望のための戦いが多かったかを言い表している。 前403年に、かつての大国・晋(しん)が魏(ぎ)・韓(かん)・趙(ちょう)の家臣に領土を分割されて三国となり、それらが周王によって諸侯として公認されたときから、次なる戦国時代が始まるのである。 |