3、殷周革命

 

 紂王は財宝や奴隷を増やすことを目的に何回も東方に親征した。殷の関心が東方へ向けられている間に、西方への備えがおろそかになっていた。西方には「周」や「召」といった国々があり、周にすぐれた指導者が現れた。彼らとて、殷が強かったので服従していたにすぎない。

 そして紀元前十一世紀後半、周の武王、その軍師・太公望呂尚率いる諸侯の連合軍が殷軍と一大決戦を行い、殷はその戦いに敗れた。(牧野(ぼくや)の戦い)こうして殷王・紂は斬られ、殷に代わって周が中心政権となった。この王朝の交代は「殷周革命」と形容されるように、大きな変革があった。生産も軍事も奴隷に頼っていた体制が殷のそれだったのに対し、周は封建制をとった。牧野の戦いで勝利をおさめた後、周は本拠地の宗周が西にかたよりすぎているので黄河中流の洛陽(らくよう)のあたりに成周をつくって副都とした。そして、外敵に備えるために各地に血族や功臣を封じた。彼らに国を建てることを認め、周の諸侯としての地位を保証し、一方で周王に対して貢ぎ物をささげ、必要に応じて軍隊を提供する義務を負わせた。この封建制によって、いざという時も殷の場合のように孤立無援になることはないと考えたのである。

 周と殷との違いは思想にもあらわれている。殷代では神と人間との距離が近かったのに対し、周は神を人間から遠ざけようとした。神には敬虔でありつつ人間に密着しすぎないようにしたのである。これにより、人間は神々の呪縛から解放され、より人間的になることができた。そして、周人は神々に代わるものとして「天」という思想を持っていた。天とは文字通り自分の頭上に広がる大空のことである。具体的な神々の変わりに、漠然とした天を持ってくる。そこに平等の思想が芽生えてくる
 周が新しい体制のもとに栄えたといっても、むろん奴隷制度など旧いものをひきずっていた。周の勢力圏の四方に油断のならない異民族がいて、天子はそれらを討伐しなければならない。戦争はやはり戦利品や奴隷の獲得という利益を生んだ。

 周の始祖の周公、二代目成王、三代目康王の時代が周の黄金時代であった。康王の治世は四十余年に及び、その間刑罰は用いられなかったという。周は農民国であるため、土地を広げるために戦いをおこなった。康王の時代までは周の勢力圏は膨張したが、四代目の昭王の時代になって息切れした。周によって土地を追われた側もこれ以上後退できないという線に立ち、死力を尽くして戦ったのである。周はその必死の抵抗に遭い、昭王は南方で戦死した。そして五代目穆王の時代、刑法が制定された。以前なくて済んだものが必要になってきたのである。また周が征服した地方の部族のうち周から遠い場所にあるものは周の王が替わっても供え物を献上しないようになった。時が経つにつれ諸侯同士の不仲、諸侯と王室との間の不和が激しくなった。

 そこで十代目の(れい)王は周王室の再建を図ろうとした。具体的に、王室を強くするために諸侯や庶民から搾取(さくしゅ)を行い、恐怖政治をしいた。人々の我慢が限界に達した時、未曾有の大乱が起こり、民衆は王宮を取り囲んだ。脂、は亡命して、彼が死ぬまでの十四年間、周では帝のいない時代、すなわち「共和」時代が続いた。これは前841年のことである。脂、死後、大政奉還が行われ、宣王が即位した。このころ多くの諸侯は周への朝貢(貢ぎ物を持ってくること)はやめていたが、大政奉還後、再び入朝するようになった。しかしそれも長続きせず、前771年、周の幽(ゆう)王(宣王の子)が犬戎(けんじゅう)(族)に殺され、周はここに一旦滅びた。幽王の子の平王は周の宗廟(そうびょう)の祀(し)を奉じて、東のかた洛陽に避難した。周王朝はそれ以後を東周と称し、幽王以前を西周と呼び分けている。しかし、東周は敗走した亡命政権であり、王室の権威は大きく失墜しており、名ばかりの王室にすぎなくなっていた。それからは諸侯(地方)の時代となったのである。

 東周が滅びた前771年から秦の始皇帝が天下統一した前221年までの550年を春秋・戦国時代と言い、一般的に春秋時代の大国・晋が分裂して魏・韓・趙の三国となった前403年を春秋時代と戦国時代の区切りとする。

 西周の王都であった宗周は攻め滅ぼされてしまったので、幽王の子、平王は 洛陽に都を移す。そして有名無実化した周王室(東周)の時代は終わり、版図を広げた封建諸侯達が中央から離脱することにより、「地方の時代」が到来する。これはこれまでの中原政権という容器におさまらないほど天下が広がり、諸侯達が群雄割拠した時代である。