2、中国初の王朝・殷の誕生
夏王朝の始祖は禹(う)である。この人は五帝の中の尭・舜と並んで儒家の聖王とされている人で、治水事業で成功をおさめた。夏王朝は何回か遷都を繰り返し世襲制度を確立する。しかし七代目の孔甲という暗君が出てきたあたりから、夏王朝は退廃してゆく。そして十代目の桀(けつ)が殷(いん)王朝を開く湯王に追放され、夏王朝は滅んだ。この王朝の交代は同じ基盤の生活圏の中でより清新な気風を持つ殷が力によってとってかわったという一つの社会の発展上での出来事であり、「変革」というよりも「継続」という意味合いが強い。 |
殷王朝もかつては実在を疑われていたが、二十世紀初頭にその遺跡である殷墟の発掘によって実在が確認された。よって殷王朝は中国史において遡り得る最も確実な時代といえる。この時代は天帝を尊び天命に従って人々を治めるのが天子の職責であると考えられていて、天子は人間の始祖である天帝を祭り、その意を伺うために占いが行われていた。亀甲や獣骨は占いに使用され、それらの上に文字を刻みこんで占いを行っていた。刻み込まれた文字が甲骨文であり、漢字の祖形とされている。この時代はこうした民族信仰の基盤の上に政治が行われる、いわゆる祭政一致時代であった。つまり、殷の王は神聖にして侵すべかざるものとなり、現人神であった。よって、祭祀権を手中におさめた王はどんなに暗愚でも王位は安泰であった。 |
この思想に基づいてできたのは奴隷制の社会であった。殷王朝の人々は異民族を捕らえて殺し、死の世界に君臨する王に仕えさせたり、農業や産業の基盤となる労働力として使用した。そのための「人狩り」は頻繁に行われていた。また殷王朝の時代にはきわめてすぐれた青銅器が制作されていた、それらはもっぱら祭祀のために使われていた。しかし青銅は貴重なものだったので農具に使われることはなかった。また青銅器のなかには金文と呼ばれる文字が刻み込まれた。金文の解読知識をもとにして、甲骨文も解読されるようになった。 |
さて、殷王朝は伊尹(いいん)という名臣を得た湯王によって興され(前1800年頃)、30代700年間にわたって続いた。中国史上最も長く続いた王朝である。この時代は殷という中心政権の周りに数多くの諸侯がいて、諸侯たちの入朝(その時代の中心政権の傘下に入ること)の数は国力のバロメーターであったと言える。湯の建国から二、三百年たって帝位継承の争いなどで殷は衰え、諸侯が入朝しなくなった。このとき、19代目の皇帝、盤庚(ばんこう)は遷都を行い、人心一新を試みた。湯が始めた王朝の国号は「商」であったが、このとき殷という場所に遷都したのでその後殷王朝と呼ばれるようになった。盤庚はすぐれた指導力を発揮し、その頃辛うじて中心政権の座を維持していたにすぎない王朝を建て直し、殷は黄金時代を迎える。しかし盤庚の五代後の祖甲は淫乱で、そのため殷はまた衰えたと言われている。そして、その後の殷の滅亡の時の王であった紂(ちゅう)は、極悪人であったと言われている。しかし、これは殷を滅亡させた勝者の側である周の一方的な言い分であり、すべてが事実であるとは考えがたい。 |