5、東南の風と赤壁大戦

 

魏(ぎ)の艦隊はすべて鎖でつながれ、あとは東南の風が吹いたときに火をつければすぐにでも勝てる、という状況になっていた。しかし、その肝心の東南の風は、この季節(11月)にはめったに吹かない。すると孔明(こうめい)が、「私が術を使って風を吹かせる」と言い出し、祈祷を始めた。この祈祷が成功するかしないかに劉備、呉(ご)の運命がかかっていた。
最初に言ってしまうと、孔明の祈祷は実は術でもなんでもなく、小さい頃から天体観測をしていた孔明がこういう条件のときは東南の風が必ず吹く、というのを知っていて、兵の士気を上げるために祈祷をしただけだった。(むろん、孔明以外は誰もそのことを知らない)
すると案の定、東南の風が吹き出した。周瑜(しゅうゆ)は、風の向きを変えるような人間を劉備の下に返すわけには行かない、といって孔明を殺そうとするが、すでに孔明は劉備の元へ戻っていた。(神出鬼没とはこのことを言うのだろう)
仕方なく周瑜は、あらかじめ練っておいた策を諸将に言い渡し、全軍で出陣する。まず黄蓋(こうがい)が魏軍に使者を送り、東南の風に乗って魏に向かうので黄蓋軍の船を通してくれ、と頼み、許可を得た。そして、呉から盗んだ食料に見せかけた硫黄その他を小船に積み、黄蓋軍は魏の陣地へ入った。と思いきや突然黄蓋の合図がおこり、黄蓋の乗った戦艦から小船に火矢が浴びせられた。火矢を浴びた小船は勢いよく燃えて、魏の戦艦に突っ込み飛び火させていく。あっという間の出来事である。魏の戦艦はほとんどが燃え、曹操はかろうじて陸地に逃げた。
しかし、そこから逃げども逃げども伏兵に追い掛け回される。追撃には孔明の指示を受けた劉備軍の武将も追撃に加わったため曹操は恐ろしい目にあった。陸地に逃げたら突然大史慈(たいしじ)に追われ、大史慈を振り切ると次は甘寧(かんねい)、甘寧を振り切って宜都の北まで逃げたら今度は趙雲(ちょううん)、趙雲も振り切りやっと人心地がついたと思ったら今度は張飛(ちょうひ)に追い回された。そして曹操は華容まで逃げてきたが、ここで関羽(かんう)と逢ってしまう。前に関所破りをしたときのことを話せばきっと見逃してくれる、と思った曹操は関羽にそのことを話す。そのことにいまだに恩義を感じていた関羽には、立つ気力も体力もない兵相手に戦うことなど出来なかった。(曹操の命運が尽きなさそうなのを知っていた孔明は、関羽を今後吹っ切れさせるためにわざとここに関羽を配置したらしい。)そして、曹操は何とか曹仁(そうじん)の守る南城まで逃げ切った。
こうして、赤壁大戦(せきへきたいせん)は劉備(りゅうび)、呉(ご)連合軍の圧勝というかたちで終わった。

 

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