2、孔明の大論陣と、呉の開戦

 

趙雲(ちょううん)、張飛(ちょうひ)の活躍によって絶体絶命のピンチを脱した劉備(りゅうび)は、関羽(かんう)と合流し、劉g(りゅうき)の居城である江夏城(こうかじょう)に逃げ込んだ。「自分たちが生き残るには呉(ご)と曹操(そうそう)を戦わせるしかない。」と孔明(こうめい)が主張しているところに、呉の使者として魯粛(ろしゅく)が訪れる。そして孔明は、呉を開戦に導くために単身で呉に赴く。
呉にやってきた孔明は、まず、降伏を主張する呉の重臣たち(張昭(ちょうしょう)、陸績(りくせき)など)との舌戦を繰り広げ、打ち負かした。その後孫権(そんけん)と会談した孔明は、孫権の意思を開戦に傾けるが、張昭らの反対に会い事態は泥沼化していく。
そこで孫権は、兄の孫策(そんさく)の義兄弟だった水軍提督周瑜(しゅうゆ)を呼び寄せる。(外からの難題は周瑜に相談しろ、という孫策の遺言に基づいて周瑜を呼んだらしい)周瑜は、呉の民を守るためには降伏しかないと考えるが、「曹操が小喬(しょうきょう)(周瑜の妻)を強奪しようとしている」という孔明の言葉に発奮し、開戦を決意する。
翌日、周瑜は孫権の下に出仕し、開戦を宣言。程普(ていふ)、徐盛(じょせい)、大史慈(たいしじ)らと兵3万人を率いて、赤壁(せきへき)に向かった。

 

目次