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私たちと「三国志」

文責:令名(中2)

 

最後に、「私たちと三国志」と題して、三国志が私達とどう関わってきたか、三国志が私達を魅了してやまないのはなぜかを書き、全体研究〜三国志・赤壁炎上〜の締めくくりとしたいと思う。

 

皆さんはどうやって三国志を知ったであろうか。おそらく、ゲームでなら、光栄の「三国志」シリーズ、もしくは最近なら「真・三国無双3」、本なら、「三国志演義」や「吉川三国志」だろう。しかし、中国の歴史である「三国志」が、いつ、どうやって日本に入ってきたかは、皆さんご存知であろうか。

 

このことについて、正確な記録は残っていない。推古天皇の時代、遣隋使が持ち帰った「三国志」を聖徳太子が熟読したという話は、面白いが推測に過ぎない。ここでは「三国志」がいかにして、日本に伝わっていったかを説明していきたい。
我が国最古の三国志が登場する書物は「日本書紀」と考えられている。なぜなら「日本書紀」には「三国志」の引用があるからだ。これと同じように「三国志」の文章を用いて潤色した個所がかなりある。これらの引用は渡来人によって書かれているが、漢文に精通したあまり、史書の引用には潤色がかなり多いのだ。このように「日本書紀」は矛盾に満ちた史書であり、これは文字を持たなかった日本が”やまとことば”とまったく違った漢文を表記する苦闘の現れであろう。この「日本書紀」などのように、「三国志演義」が書かれた後、かなりの量を引用している。このように、「三国志」は、日本の書物に多かれ少なかれ影響し、その影をちらつかせている。

 

さて、2002年夏の、全国漢文教育学会の教育講座で、司会者は「三国志ブームはひとやま越えた感じ」と述べたという話が本に書いてあった。では、「三国志ブーム」はいつ、どのように起こったのか?
日本で「三国志」といえば吉川英治著の、通称「吉川三国志」といわれるものであろう。そして、現代「吉川三国志」に見られるように色々な小説が世に出て、多くの日本人に愛読されている。
劉備が黄河で母のために茶を買う場面から、諸葛亮が五丈原で陣没するまでを書いている。吉川英治は姜維の北伐や蜀・呉の滅亡などは書かず、諸葛亮が陣没した所で書くべき所は書き尽くしたと、筆をおいている。
他にも、陳舜臣氏の「秘本三国志」というものもあり、これは「吉川三国志」などと違い、かなり色付けされている。この小説で一番面白いことは曹操と劉備が八百長した事で、曹操が「英雄が多すぎるから、協力して消していこう」と劉備を誘う。こんな相談が「秘本三国志」に書いており、これは他の三国志とはだいぶ違う。
白馬で顔良が関羽に一撃で切り捨てられるのも、劉備が顔良に「関羽が投降してくる」と吹き込んだからだと書いてある。しかし、孔明を迎え入れると、「八百長はやめなさい」と劉備に言う。孔明はカラクリを知っていたのだ。
この後、孔明も司馬懿と五丈原の戦いで八百長する。この本は、あまりにも「演義」等とかけ離れているため、最初に読まず、後で好みで読むことをお勧めする。

 

この後も三国志は、「三国志物語」や、横山光輝のマンガ、戦略シュミレーションゲームなどで、子供からサラリーマンまで、多くの人を虜にする。
1980年頃に、歴史読本に三国志の特集を企画し、これが広い意味の三国志ブームのきっかけとなっている。1991年は「歴史にもしもは禁物」を逆手に取り、「反三国志」なるものが発売される。蜀が魏を滅ぼすというものである(この本は途中まで読んだが、あまりに蜀が強すぎてつまらなくて、家に放置してあります)。

 

このように、つい最近まで三国志はブームで、光栄もついに9作目に入った。どこまで続くのやら…。
三国志はおもしろい。昔の日本書紀に三国志が引用されていたように、三国志は日本の心をつかんでいるように思える。なにゆえ三国志は面白いか。三国志には、魅力ある人物がたくさんいる。君主達が覇を競い、軍師、武将は君主に忠義を尽くし、全てを捧げる。
そのような天下を競う興亡を見ると、平和な現代の中にある冷え切った闘志が燃え上がり、胸が躍るようである。

 

小説でもゲームでもいい。是非、三国志にふれて、今の現代にはない戦乱の世を堪能して欲しいと私は思う。

 

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