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赤壁の戦い以後の三国志

 

検証・赤壁の戦い。楽しんで頂けたであろうか。ここでは、話を変えて、赤壁の以後の三国の沿革を記述してみたいと思う。

 

赤壁で大敗北を喫した曹操は、北へ戻ったが、曹仁と張遼に南方の守備を任せ孫権の攻撃を防がせた。彼らが防備を固めて孫権の北進を阻んでいる間に曹操は人物任用の令を出して、内外から幅広い人材を集めるだけでなく、銅雀台(銅爵台とも言われる)と呼ばれる高層の塔が立ち並ぶ広大な宮殿を根拠地の?に建てたりと河北での勢力をますます盛んにしていった。周瑜は、曹操と孫権で天下を二分する計画を立てるものの魏の曹仁との戦いで負傷して、36歳の若さで死去する。後任となって荊州奪還の任に就いた魯粛は劉備との友好関係を維持し劉備が荊州に駐留する事を許すよう孫権に働きかけ、孫権もこれを認めるが、この事が後に、おおきな問題となる。
曹仁・張遼等の頑張りにより、劉備・孫権の南からの攻撃を防ぎ、北方に関しても長安の北方に根拠地をおく馬超や韓遂の反乱も鎮圧し、領国が落ち着くと曹操に「九錫を受けて国公の位につけよう」という運動が、董昭等の間に起こる。この時曹操の腹心だった荀ケは曹操が魏公の位に就くことをめぐって曹操と対立、最後には服毒自殺をした。213年曹操は念願の魏公になり後漢を有名無実の国にしてしまう。
この後曹操は漢中の張魯をも降伏させ、赤壁の戦いで失った国力を復活させる。
さて、荊州を足場にした劉備は、211年曹操を恐れる劉璋によって蜀に迎えられ歓迎された後、蜀を脅かしていた漢中の張魯を征伐に行くが、途中で軍勢をストップさせ曹操に攻められている孫権を助けに行くと荊州へ帰るそぶりをする。しかし前々から劉備を高く買い、劉璋にかわって蜀を統治してもらいたいと考えていた張松はこの事に慌てて、劉備に手紙を送る。が、兄の張粛に密告され張松は処刑され、劉璋は劉備と手を切る。遂に世に言う成都制圧戦が始まるのである。戦いは戦に慣れた劉備軍が優勢に進む。そんな状況の中劉備側に問題が発生する。前線にいた孔明と並ぶ劉備の名軍師?統が戦死してしったのだ。これにより劉備軍はこの後大変苦労することになる。やむを得ず荊州で留守を預かっていた孔明は張飛や趙雲等と共に援軍に駆けつけ、劉備はようやく蜀入りから3年後の214年夏、蜀を制圧し荊州・益州を手中にしたのである。
勢いに乗った劉備は曹操の支配する漢中に進出した。これに対し曹操は自ら赴かずに重臣の夏候淵や張?を漢中にやり、黄忠を中心とした劉備軍と1年間戦うが、夏候淵は戦死張郊は惨敗と無残な結果に終わる。この状態になって曹操はようやく動き出すが状況は変わらず、漢中を劉備に奪われてしまう。劉備はこの後周囲の薦めもあって関中王となった。

 

さて、劉備が漢中攻略に動くのと同時に荊州を守っていた関羽も北上し、襄陽付近に駐留する曹仁を攻めた。曹操は配下の干禁に命じて曹仁に急援軍を送らせたが、干禁は関羽に捕らえられてしまう。ところが、この破竹の劉備軍進撃もだんだん雲行きがあやしくなってきた。かねてから劉備のことを苦々しく思っていた孫権は曹操と手を組み、呂蒙に命じて荊州の背後を攻撃させたのである。関羽の背後を守っていた麋芳と不士仁はもともと関羽のことを恨んでいたことも合って孫権軍に簡単に降伏。荊州を孫権に奪われ、前方からも魏軍の反撃にあった関羽は魏・呉両軍に破れ荊州から脱出する途中に、孫権軍に捕らえられ処刑されてしまった。関羽の死後、荊州攻略を推し進めていた曹操、呂蒙が相次いで亡くなった。三国志演義には「曹操、呂蒙が亡くなったのは関羽の呪いのせいである」と書かれている。
曹操の死後、魏王の位を継いだ曹丕は献帝に迫って禅譲させ、ついに魏の文帝として皇帝となる。これをもって400年続いた漢王朝は滅びたのである。これに対抗するため漢中王を称していた劉備も漢の皇帝の位に就く。そして劉備は関羽の復讐を果たすため大軍を率いて荊州に乗り込む。こうして俗に言う夷陵の戦いがスタートしたのである。

 

222年、劉備は関羽の復讐と荊州奪還のため自ら大軍を率いて荊州に侵攻する。出征間際に重臣法正が亡くなるなどアクシデントもあり、趙雲、孔明等も止めたが頑として聞き入れなかった。当初劉備軍は無人の野を行くような快進撃を続け呉の領内まで攻め入る気配をもしめしたが、呉軍との小競り合いの途中で蜀の名将軍黄忠を失い、義兄弟張飛を部下の裏切りでなくすなど徐々に敗色の色が濃くなり、呉の総大将陸遜に数十もの陣を横に長々と敷いていたところを攻められその結果、大敗を喫してしまう
命からがら白帝城に逃げ込んだ劉備はそのまま病に倒れてしまう。そのまま病状は回復することなく、漢王朝再興のために生涯を捧げ三国時代を作り上げた劉備は223年白帝城にて亡くなるのである。演義には、劉備は死ぬ直前に孔明に対して「君の才能は曹丕の十倍あり、かならず国を安定させ、大事業を成し遂げられるだろう。もし劉禅が補佐するに足る人物であるならば助けてやってくれ。もし才能がないならば君が国を取ってもよい。」と言い、孔明はそれに涙を流しながら、「命を捨てる覚悟で劉禅を補佐するつもりだと言った」と書かれている。

 

こうして、孔明は蜀の全権を一手に引き受けることとなった。劉備の死後孔明は魏を滅ぼすには呉の助力が不可欠とふみ、敵対する呉に使者を送り同盟関係を修復させる。孫権としてもいつまでも魏に服従している気はなく、二方向に軍を分けることもだんだん難しくなってきたのである。ほっとしている暇もなく、孔明は国力を回復させるために孤軍奮闘する。手始めに南方(今のベトナムあたり)で反乱を起こしていた孟獲の乱を鎮め、(演義には孔明は孟獲を7回戦い、7回捕らえ、7回解き放ったのち、孟獲を心より信服させたと書かれている)南方の安全を確保してから、劉禅宛てに出師表を出しついに魏討伐の軍を編成したのである。
孔明は、魏討伐にさいし、まず直接長安を攻めるのではなく、かつて馬超が根拠地にした涼州を攻略したのである。魏軍は当然長安に攻めてくるものと考えていたので、涼州は簡単に蜀軍の手に落ちた。しかし、孔明の愛弟子、馬謖の失敗で街亭の戦いで魏軍に破れ、第一回北伐は、失敗に終わった。この後孔明は、呉軍と連動させて何度も北伐を行ったが、その度に天候や部下の失敗などによって戦には勝ちながら魏を滅ぼすことができないまま、234年、五丈原にて亡くなった。遼東の公孫淵は自立して燕王を称するが、魏の明帝は司馬懿仲達に命じて滅ぼす。このころ邪馬台国の卑弥呼が魏に使者を送り、新魏倭王の称号をもらっている。明帝が死去すると、司馬懿は曹爽と共に幼い皇帝の後見役となるが、曹爽によって遠ざけられる。呉では皇太子の孫登が早く死に、皇太子の地位をめぐって息子の孫和と孫覇が争うようになる。孫権は両者に代えて孫亮を皇太子とし間もなく死去する。

 

この後、魏では司馬懿がクーデターによって政権を握り、魏の実権は司馬師、司馬昭等によって奪われる。呉と魏は何回も長江の北で争うが、次第に国力を低下させ長江近くまで圧迫されることになる。一方蜀も姜維が北伐を再開するが、何の成果もなく国力を衰えさせてしまう。ついに蜀も魏のケ艾と鍾会によって滅ぼされてしまう。魏も晋に禅譲して司馬懿の孫、司馬炎が位に就く。魏の滅亡だ。晋は大軍を動員して六方面から呉に侵攻し、呉の都・健業にせまると呉主の孫皓は使者を送って晋に降伏し、魏・蜀・呉の三国時代は終わりを告げた。

 

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