6、桐野作人氏の四国問題対立説

 

 桐野氏は著書『真説本能寺』(学研M文庫)の中で@〜Dの説を全て否定して、四国問題の対立を重要視している。以下桐野氏を説をまとめる。
 まず桐野氏は上に挙げた説を否定する。野望説(高柳光壽氏)・怨恨(えんこん)説(桑田忠親氏)については、多大な影響を与えたとしながらも

 「根拠となる史料の多くが近世の軍記類・家譜(かふ)・聞書など二次的な編纂物であることは、その所説の致命的な弱点となっている。また光秀の謀叛理由を追及する視覚として、個人的な性格や事情に求める傾向が強いという方法論上の限界が目立っている。」

 朝廷黒幕説(立花京子氏)についてはこれを公武対立はなかったという視点から否定している。まず立花氏の論は公武対立(朝廷と信長の緊張関係)の上に成り立つものである。桐野氏はそれを否定することで朝廷黒幕説を批判している。

 桐野氏が公武対立を否定する要因として信長が室町幕府三代将軍・足利義満のように武家でも朝廷でも位が高い、「室町(むろまち)殿」(信長は「安土殿」)を目指していたことを挙げている。信長の行動は禁裏修築・経済的援助から「公武の協調・融和だったのは言をまたない」としている。また信長が右大将という官位を辞任したのは、長子の信忠に譲るためだったとしている。(『兼見(かねみ)卿記』)

 信長は「室町殿」を目指していたがそれは「公武統一政権」への移行を目指すもので、その主催者たる信長と、従属者・朝廷との間に思惑の差はあったが公武対立の激化ではない。

 正親町天皇は譲位を希望していた。それこそ朝廷が熱望した「朝家再興」であり、「左大臣推任」「三職推任」※3は「朝家再興」に位置づけられるものである。馬揃えは喪に服している天皇一家に配慮して自主的に鳴物停止を行ったのであり「軍事的示威」ではない。

 さらに朝廷黒幕説でクロ−ズアップされた近衛前久(さきひさ)について、信長は前久に陣参する公家衆を統括する役割を期待されていたらしい。近衛前久の関与については否定している。前久は信長から破格の待遇を受けており、他の公家から憎まれていた。立花氏(朝廷黒幕説)が「わごれなんどは木曽路を上らしませ」(『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』)といっているのは、根拠にならない。『甲陽軍鑑』には信長を悪人に仕立てようというところが見られる。しかし山崎の合戦直後に出奔していることや公家の日記に「非挙」とあることから前久は謀叛を予め知っていた可能性が高い。

 立花氏の朝廷黒幕説で出てきた吉田兼見も同様の可能性が高い。兼見の日記である『兼見卿記』は82年5月17〜20日が不健康でもないのに空白であり、不自然である。これは5月14日頃に光秀と信長との確執が起こったのが原因(フロイス『日本史』p.44参照)でそれをつけられなかった。兼見はそれを知っていた。  前久と兼見は謀叛を事前に知っていた可能性があるが朝廷全体がそうだったとするのは過大評価で朝廷黒幕説は成り立たない。

 次ぎに足利義昭黒幕説についてだがこれも否定している。森家文書(p.49参照)を指して、土橋(紀州雑賀の反信長派)との書状のやり取りは初めてだが、足利義昭が光秀と交流を持とうとすれば、毛利ラインからの方がもっと早くついたであろう。その義昭の言葉を土橋に伝えていないからには、義昭上洛の話をはじめて持ち込んだ可能性が高い。光秀は義昭を積極的に連携しようとする形跡がなく、光秀は自前の権力樹立を目指していた。だから義昭は黒幕ではない。

 長い否定が終わって、次は桐野氏の主張である。氏は光秀と信長との関係について本能寺の変の三ヶ月前までは甲州征伐に参加した軍勢の士気が低かった(『兼見卿記』)以外不審な点はないとしている。両者間に確執が生じたのは、5月14日、家康の饗応役を命じられてからだと考えている。その根拠として、先に桑田忠親氏がつかったフロイス『日本史』を挙げている。これは、p.44を参照。簡単に言えば「信長と光秀が密室において話していたが、信長が怒って光秀を足蹴にした」というものである。
 この記事が事実ではないとする批判に対して桐野氏は、

 「イエズス会は織田権力内に深く食い込んでおり、その情報収集能力は他の及ぶべきところではない。たとえば、明智軍の入京は家康を討つためだった下級武士が思いこんでいたという『日本史』の記述は日本側史料でもはっきり裏付けられる(『本城惣右衛門覚書(ほんじょうそうえもんおぼえがき)』詳しくはp.56参照)」

 と述べ、桑田氏が光秀が家康饗応(きょうおう)に失敗したとして、怨恨説の原因としていることについても、「そうした俗説ではなく、政治的要因に着目すべき」と批判する。

 その「政治的要因」として、織田信長が三男・信孝に四国攻めの朱印状を5月7日に与えたことを挙げている。その後でフロイスの記事には

 「信長の四国政策転換(光秀は主導権を奪われた)の決断に対して、光秀は再考を迫ったのではないか。あるいは長宗我部(光秀が担当していた四国の大名)の調略長暦は自分に任せてくれと申し出た可能性もある。ところが信長は聞く耳をもたず、光秀の懇願をはねつけた。」 こういうことだったと解釈している。

 この仮説を裏付けるために、本能寺の変が起きた次ぎの日に織田信孝が四国に渡海する予定であったことを挙げ、このタイミングは信孝の四国渡海を阻止するか無力化する目的があった、と説明する。『兼見卿記』(光秀と親しい吉田兼見の日記)に5月17日から4日間空白になっていることも傍証に挙げている。

 四国問題について(「二、本能寺の変時の状況」で詳しく触れた)はじめは光秀が四国の有力大名・長宗我部を信長に取り次いでおり、1580年までは外交関係は良好であった。信長は長宗我部に「四国切り取り次第」というが、1581年には阿波(現徳島県)半国と土佐国のみの了承となり、さらに82年5月7日には讃岐(現香川県)を織田信孝、阿波(現徳島県)は三好康長、伊予、土佐は未定としている。つまり信長が承認する長宗我部領が次々と縮小されているのである。また三好(みよし)康長とは、四国の反長宗我部派であり、巻き返しを計る。そして康長は羽柴秀吉に接近するようになる。そして、阿波の領有を承認されるのである。光秀は四国を担当していたわけだが、そこに秀吉が阿波に侵入し、反長宗我部を支援するのである。これは信長の支援を受けていた、と桐野氏は考えている。しかし、81年の国割りなら何とか光秀は解決を図ろうとしたかもしれない。だが82年5月の国割り案は長宗我部に安堵した阿波・土佐をも否定したに等しかった。この光秀について「これほど頭越しに決められては光秀としても唖然とするほかなかったであろう。」と桐野氏は述べる。

 しかも光秀の重臣・斎藤利三が信長の四国政策の転換に強硬に反発し、光秀がこれにひきずられた可能性も示唆している。(なぜなら利三は長宗我部縁者)

 つまり「長宗我部氏に対する段階での約束さえ反故にされ、長宗我部氏の存立そのものが否定されたことはさすがの光秀も我慢の限界を越えた」のが、信長・光秀の確執の原因だと述べている。