5、小和田哲男氏の信長の悪逆非道防止説

 

 小和田哲男氏は著書・『明智光秀 つくられた「謀反人」』の中で、本能寺の変後に出した手紙に「信長父子悪逆非道云々」とあることから、信長の悪逆非道防止説を唱えている。以下がその要点である
光秀の情況

 光秀は土岐明智氏の出自である。理由として『立入左京亮入道隆佐記(たていりさきょうのすけにゅうどうりゅうさき)』(p.42参照)に、光秀が土岐氏の中でも相当な地位のものである、とあることや「美濃国諸旧記」も根拠に挙げている。さらに光秀は1556年、明智城(『明智軍記(あけちぐんき)』より)落城後、越前の朝倉義景に仕え、のち信長配下に。そして宇佐山城将となる。

 1571年の比叡山焼き討ちの中心的役割を果たし、忠実に任務を遂行。これにより坂本城を与えられ、一国一城の主に(破格の扱い)。家臣は総勢1250人くらいに。その一方で秀吉との熾烈な出世争いを繰り広げる。両者とも「途中入社組」として信長は二人を競わせた。京都奉行、金ヶ崎退き口などで二人は共同行動。(連書状、『信長公記』より)信長の「茶の湯御政道」では秀吉の方が先に茶器をもらったが茶会を開いたのは光秀が先であった。(茶器は重臣の証明)

 光秀は丹波平定の戦いに任され、1577年から1579年にかけて亀山城、八上城(波多野秀治)、黒井城を攻め落とした。

 光秀は「近畿管領」(当時こんな呼び名はないが、理解促進のために)として働いている。佐久間信盛の折檻(せっかん)状(『信長公記』)では第一に丹波を平定した光秀を褒め、第二に羽柴藤吉郎(数カ国平定)、第三に池田恒興と続いている。光秀は1580年に丹波一国を恩賞として与えられた。そして丹波一国二十九万石、近江志賀郡五万石の大名となり、居城近江坂本城、丹波亀山城は家臣団の中で最も京に近かった。遊撃軍としての要素があった光秀のことを津本陽氏は「織田軍団の近畿軍管区司令長官兼近衛師団長でありCIA長官を兼務していた」と評し高柳光壽氏は「近畿管領」と言っている。この間に光秀は近畿周辺諸国の武将達を与力とし、「近畿管領」としての立場が彼と京都の公家たちとの交流を深めさせた。

光秀が何故謀反を起こしたか

 1581年の馬揃えで織田軍団を動かす晴れがましい馬揃えの総括責任者となる。信長のねらいは天皇に対する示威運動であり、正親町天皇に譲位をせまるためのものであった。筆者は光秀がライバル秀吉に対し「遂に俺が勝ったぞ」という思いを抱いたことが重要であると主張している。(秀吉は中国遠征中)

 武田攻め(1582年)では「近畿管領」の光秀は信長の親衛隊としての役割しかさせてもらえなかったが、丹波攻めのとき光秀の下にいた滝川一益(たきがわかずます)が先鋒として大活躍。光秀は内心焦っていたに違いない。さらにこの時の近衛前久への暴言(『甲陽軍鑑』)や恵林(えりん)寺の高僧快川紹喜(かいせんじょうき)(土岐氏一族)を焼き殺したりする正気の体でない信長を見て光秀は内心穏やかではなかったはずである。

 安土城での徳川家康接待では5月14日、安土城に戻り「在荘(ざいそう)」(休暇)を命じられ、15日に家康の接待役に任じられている。ここのところは史料がないので推測になっているが、家康の接待役を命じられたのはもっと前のことで15日にはすでに準備ができていた(14日の「在荘」は光秀を軍務からはずすため)と述べている。ここで光秀は接待役を三日で解任されてしまうのだが、『川角太閤記』では光秀の不手際により解任されたとしているが、これは後世の創作によるものである可能性が高い。そうではなく、秀吉の応援のための解任であり、『信長公記』では秀吉の援軍として、『川角太閤記(かわすみたいこうき)』では毛利の後方撹乱のためと記しているが筆者は後者の説を採っている。

 また『明智軍記(あけちぐんき)』によると旧領地の丹波国・志賀郡を召し上げ出雲・石見(空手形ではあるが戦国時代の慣例)の2国を与えると伝えられ「京都管領」であった光秀は京都から遠い所への「左遷」と受け取った。

 信長には将軍任官の動きがあった。(三職推任)武田氏を滅ぼした信長に対し、朝廷は歩み寄りを見せ、三職(太政大臣・関白・将軍)のうちのどれかに任官させる意向を示した。ここで信長は歴史上前例のない平姓将軍を狙っていたの思われる。5月29日にわずか150騎の供で本能寺入りしたのは義昭の将軍解任の可能性を示唆する報告が届けられたからではないだろうか。

愛宕百韻

 「愛宕百韻(あたごひゃくいん)」には新解釈を示している。4月23日に安土に到着した一回目の勅使と5月4日に到着した二回目の勅使が戦勝を賀し、三職推任の意向を伝えてきたとき信長のそばにいたのは光秀と堀秀政(ほりひでまさ)くらいで、重臣は光秀一人であった。光秀は美濃源氏土岐氏の人間であり学識もあったので武士で平氏の人間が将軍になった先例はないことも知っていたはずなので信長の将軍任官に可能性が強まっていくにつれ「平姓将軍の出現は歴史の秩序を乱す」という思いは強くなっていったのだろう。家康の接待役を5月17日に解任されたのち居城の坂本城に戻った光秀は26日に丹波亀山城に入り、翌27日に愛宕大権現へ参詣し、「出陣連歌」を詠んでいる。通説では発句の「時は今あめか下しる五月哉」の「時」を「土岐」にかけ、「あめか下しる」を「天下を治る」にかけ、「今こそ、時の人間である私が天下を治めるときである」という謀反の心のうちを吐露したものであるとされている。 桑田忠親氏は「時」から「土岐」を暗示させたのは後世の人のこじつけである。としているが、筆者は光秀のアイデンティティの一つに土岐一門という意識があったのは間違いないとみており、これに反論している。

 最近の研究では(津田勇氏)百韻全体に目配りをしたものがあり、光秀のような古典に通じた教養人が「治る」という重い言葉を自分のために使うことはありえないので「あめか下しる」を「自分が天下をとるのだ」とはせず、「時は今」の「時」を「土岐」に結びつけるのも短絡的であるとし、『三国志』の「出師の表」の一文を面影にした句作りだと指摘する。そして「愛宕百韻」の句のかなりが『平家物語』『太平記』等の古典を下敷きにして成り立っていて光秀の句には「朝敵」となった昔の人々が横暴な平氏を討つという打倒平氏・源氏台頭の寓意が込められていた。筆者はこの解釈に賛同している。

信長の悪逆非道防止説

 朝廷・公家と深い人脈で結びついていた光秀の目に映った信長の横暴は他にもある。信長が正親町天皇に譲位を迫ったこともそのひとつで、桐野作人氏がこれに詳しいが皇位簒奪(さんだつ)計画があり、光秀もこれを知っていた。また京暦を変えろと信長が公家たちに無理難題を吹っかけたことが『兼見卿記(かねみきょうき)』『日々記(にちにちき)』にみられる。 以上、光秀が信長の非道と感じてきたことは

1、正親町天皇への譲位強要、皇位簒奪計画
2、京歴への口出し
3、平姓将軍への任官
4、現職太政大臣近衛前久への暴言
5、正親町天皇から国史号をもらった快川紹喜の焼き殺し

の5項目である。筆者が光秀謀反の理由として信長非道阻止説を前面に打ち出したのは悪政・横暴の数々が具体的に指摘されるのと光秀がそのことに言及している史料があるからである。それは1582(天正十)年と推定される六月二日付(本能寺の変当日)の光秀書状である。そこには「信長親子の悪虐は天下の妨げ」とあり、「だから討ち果たしたのだ」といっている。

 従来はこの「悪虐」を比叡山延暦寺焼き討ち、一向一揆との戦いで多くの門徒を殺したこと、将軍足利義昭の追放のことを指していたが、筆者は上記5項目のことであるとしている。

 「朝廷も庶民も信長の悪虐を嫌っている。主君殺しではあっても、この場合は支持されるのではないか。」というのが光秀も思いではないのだろうか。

 さらに光秀は出世競争に疲れていた。甲州遠征で自分の部署が発表されたときがまずショックだっただろう。「当然自分が総大将だ」と思っていたからである。ここで彼は疎外感を感じる。本能寺の変直前の信長の命令で秀吉の下につくことになったときが「ライバル秀吉に負けた」と強く意識することになった。この光秀の思いが本能寺の変の副次的理由になった可能性はある。

 もっと根本的に二人の思惑がぶつかり合う問題があった。長宗我部(ちょうそかべ)問題である。1575年に長宗我部元親が信長によしみを通じたときの取り次ぎ役が光秀だったのに1581年に両者は断交。この大きな要因は藤田達生氏によれば中国方面最高司令官であった秀吉の意向によって信長が三好氏の阿波支配を支持し、長宗我部氏とは断交した。これにより光秀は信長が自分でなく秀吉寄りになったことを痛感した。

光秀にビジョンはあったか

 怨恨説を主張するひとが使う『別本川角太閤記(べっぽんかわすみたいこうき)』の文書は偽文書である。(p.48参照)さて、本能寺の変後朝廷工作のほうは進んでいたが最も頼りにしていた細川藤孝は馳せ参じてこなかった。他国も大名への文書は各大名により証拠隠滅(いんめつ)が図られ、史料はない。畿内を平定した後の光秀のビジョンは推測すれば、自身が征夷大将軍になるか足利義昭を迎え、室町幕府を再興するかだっただろう。しかし、朝廷工作に時間を費やしてしまった光秀は秀吉の電撃的な速さにやられてしまった。秀吉の切り崩し工作により与力に裏切られ、勝負にならなかった。