4、藤田達生氏の足利義昭黒幕説

 

 藤田達生氏は著書『本能寺の変の群像』(雄山閣)の中で本能寺の変には足利義昭※2が深く関わっていたことを主張している。以下にその要点をまとめた。
1、信長と義昭

 信長は天下の統一構想を持っていた。これまでも有力公家衆を国・織豊期の朝廷政治」『経扶持によって支配したり(池亨「戦済学研究(朝尾前掲『大系日本の歴』33)、暦法に口を出したり史可侵の聖域を侵犯してい8 天下一統』)するなど、天皇の不るという信長の国家感は、中世的説がある。この段階におけるな皇制を統一し、また、自権力機構を排除して、世俗王権と天分え方であった(フロイス『日が神格化し、その座に就こうという考本史』5より)。

 一方義昭は、元亀4年に信長に追放された後、紀州惣国(そうこく)一揆を頼って紀伊の由良に移る。惣国一揆は義昭を推戴することにして、河内方面に出兵する。しかし三好康長の降伏、武田勝頼の長篠における惨敗、大阪本願寺の和議等によって戦況は悪化し、義昭は毛利氏領国である備後の鞆(とも)へ移る。   その後義昭は、上杉・武田・北条との和解を実現させ、北陸において上杉と本願寺を和睦させ、丹波の波多野氏を中心とする諸大名や播磨(はりま)の別所も毛利方につかせる。それにより松永久秀や荒木村重といった織田家の有力家臣が離反して行き、信長は絶体絶命の危機を招く。このように武家の棟梁としての将軍職はまだ、地方武士を糾合するのに現実的な求心力を持っていて、そのため信長は追放時には処断するのを控えたのである。

 しかし、前に述べたような信長軍の優勢によって、朝廷は将軍職推任に踏み切らざるを得なくなった(立花京子「信長への三職推任について」(『日本歴史』497))。そのためには義昭を殺すか出家させなければならない。今度は義昭が殺されても反旗を翻せる勢力はいない。このように考えれば、義昭は信長の中国遠征を目前にしてまさに絶体絶命の危地にあったといえるだろう。

2、光秀と秀吉

 明智光秀ははじめ将軍足利義昭の家来となり、織田信長との取り持ちの役を勤めた。しかし、義昭と信長が対立すると、義昭の元を離れ、信長の家臣として働くことになる。そこで光秀は、京都・丹波など畿内の支配と共に織田政権と長宗我部(ちょうそかべ)氏を結ぶ仲介役(どちらも阿波を本拠とする三好氏を仮想敵としている)として四国政策にかかわった(信長から長宗我部元親にあてた書状(「土佐国蠧簡集」4(『増補織田信長文書の研究」下巻』)に光秀の名が出て来る)。これは光秀の重臣斎藤利三(としみつ)の妹が、元親の正室であったことによるであろう。

 しかし状況が一変して、信長が天下人としての基礎を固めた1581年6月に、信長は、降伏した三好康長を阿波に入れ、長宗我部を討伐しようとした(東京大学史料編纂所(しりょうへんさんじょ)架蔵(かぞう)影写本「香宗我部家伝証文」)。つまり長宗我部との断交である。ここで登場するのが秀吉である。彼は、信長の四男秀勝を養子とするとともに、甥の秀次を三好康長の養子としていた。彼はこの立場から、長宗我部征伐に賛成し、光秀と水面下で争う。一方長宗我部氏と毛利氏が義昭に接近して同盟を結んだ(香川元景書状)。

 この対立は秀吉が次第に有利となる。四国政策で勝ったこと、信長に信頼されて姻戚(いんせき)関係で結ばれたこと、また、中国地方は切り取り次第に領土にできる許可を得たことなどが大きい。一方光秀は四国政策で敗れ、信長との姻戚関係もなく、領土は広いものの畿内が中心で発展性がない。このような状況で、中国・四国遠征が完了した後には自分は失脚するに違いない。こう思って光秀は謀反に踏み切ったと考えられる。

3、本能寺の変

 明智光秀は謀反をするに当たって、各地の大名などに協力を要請する書状を出す。

・ 上杉家 河隅忠清(かわすみただきよ)(上杉家家臣)書状(「歴代古案」6(『大日本史料』)より推測される

・ 美濃・近江・若狭などの畿内近国の諸領主 信長家臣西尾光教(にしおみつのり)に宛てた書状(「松雲公採集遺編類纂(しょううんこうさいしゅういへんるいさん)」143−古文書部44)、また近江の阿閉貞征(あつじさだゆき)や京極高次(きょうごくたかつぐ)、若狭の旧守護武田元明が本能寺の変に呼応して蜂起した事などより推測される、また、与力で、しかも縁戚関係にある丹後の細川氏、大和の筒井氏とも連絡を取っていた可能性が高い

・ 毛利家 小早川隆景宛の書状が『別本川角太閤記(べっぽんかわすみたいこうき)』に収録されている(足利義昭の上洛も促している。p.48参照)

・ 紀州惣国一揆 光秀から土橋平尉(へいのじょう)(雑賀の将)に宛てた書状(東京大学史料編纂所架蔵影写本「森家文書」)がある(p.49参照)。

・ その他、信長に敗れ、追放された領主・浪人たちと連絡を取っていた可能性も高いと思われる

(1) 摂津の能勢(のせ)氏(多田御家人に系譜を持ち同じ系譜で信長方に属した塩川氏に敗退している)の当主能勢頼次の一代記「能勢物語」(森本弌編)に、能勢氏が本能寺の変で光秀方につき奮戦したことが記されている

(2) 安藤守就(もりなり)(美濃三人衆であったが、武田信玄に内通していたという理由で信長に追放された)が、本能寺の変に乗じて旧城美濃北方城に拠って稲葉良道と戦い、敗死した(本能寺の変が6月2日、安藤の戦死が6月8日なので連絡の話は大いにありえる)

 また、足利義昭も御内書を何本か送っている。

・ 乃美(のみ)宗勝(毛利家臣)に宛て、毛利・小早川に対し、信長の死を報じ、忠勤を尽くすよう命令する書状(東京大学史料編纂所架蔵影写本「本法寺文書」)

・ 香宗我部(こうそかべ)親泰(長宗我部元親の弟)に宛て、長宗我部氏に対し、毛利家と共同作戦を取って自分の帰洛のために尽力するよう命令する書状(東京大学史料編纂所架蔵影写本「香宗我部家伝証文」)

 光秀の書状において注目すべきところは、「上意」「御入洛」という言葉である。これは尊敬語であり、さらに同じ書状の中に「信長を討ち果たした」とある以上、「この言葉の主体は当然将軍義昭でなくてはならない。」また、明智光秀には政権を樹立する力もなく、また諸国の大名を組織・指揮することもできない。これらのことを考えると、義昭が光秀に命令してクーデターを起こさせ、あらかじめ協力を取り付けていた反信長勢力を糾合し、自らの「御入洛」によって幕府機能を復活させること、このことが光秀の利害と一致していたと考えられる。

4、本能寺の変に関する人間関係

 次に本能寺の変にかかわった人間の関係である。  まず、義昭と光秀を再び結びつけた人間は、信長の朝廷工作の窓口であった近衛前久だと考えられる。彼は、光秀とともに信長配下として働いていて、また義昭とは従兄弟でしかも義兄弟という関係にあった。先に述べたように、信長が朝廷の利用価値を低く見て、自己神格化を図っているのを見て、先手を打って信長打倒を決意したと考えられる。

 しかし、前久は信長のための外交の使者として各地に派遣されており、その意味で義昭との関係は良好ではなかった。その二人を結びつける人間は本願寺の顕如(けんにょ)の息子、教如(きょうにょ)であると考える。(詳しくはp.41参照)彼は、前久の猶子であり、さらに本願寺が信長と講和した後も、紀州に逃げて雑賀衆に擁立された反信長派の一人であること、それに吉川広家の自筆覚書案(『吉川家文書』917号)に紀州雑賀より、信長不慮の段、たしかに申し越し候」とあることが理由である。

 これらのことにより、義昭と前久の連携には何らかの形で教如が関与し、彼ら相互の意思疎通や長宗我部氏・毛利氏などの共同勢力への情報の伝達は雑賀(さいが)衆が担当したと推測される。

 この時期、毛利氏は織田家と講和しようとしていたため、大きな動きを見せず、本願寺も織田と講和していたため、教如以外は表立った動きを見せなかったが(どちらに転んでも生き残ろうという本願寺の戦略だと筆者は見ている)、長宗我部氏は織田軍の征伐を受け、滅びる危機に瀕していた。この窮状を救うためにも、クーデターを急がなければならないと光秀や義昭、朝廷関係者は焦り、この決行日になったのだと思われる。 また、信長の上洛では、5月に朝廷から示された将軍職推任に対する回答の可能性も考えられた。信長が将軍任官の意思表示を行うことは、クーデターの大義名分を奪うことに直結する。そのため、なんとしてもクーデターはその直前に結構されなくてはならなかった。

 また、立花京子氏(@朝廷黒幕説)の見解では、本能寺の変を朝廷の信長打倒戦と評価しているが、この説明では朝廷関与の説明はクローズアップされるが、その代わり光秀の主体性が薄弱となっていて、彼がいかなる政権構想を持っていたのかがまったく分からない。彼自身クーデター後の政権を自らの軍事力と朝廷の協力のみで支えていけるとは考えていなかったはずである。「その意味で、足利義昭がクーデターの中核に位置づけられなくてはならない。」