3、立花京子氏の朝廷黒幕説

 

 立花京子氏は著書『信長権力と朝廷』の中で、『日々記(にちにちき)』(武家伝奏・勧修寺晴豊(かじゅうじはれとよ))など朝廷・公家の動向に注目し、朝廷が信長に圧迫されていた事を述べている。
 「本能寺の変」には明智光秀誠仁親王(さねひとしんのう)(1552〜1586,次の天皇予定者)、勧修寺晴豊(かじゅうじはれとよ)(武家伝奏『日々記』を書いた公家)、近衛前久(このえさきひさ)(1536〜1612太政大臣、公家)、吉田兼見(よしだかねみ)(1535〜1610、吉田神道の指導者、光秀、信長と親しい)らによって計画された事件であり、正親町天皇(おおぎまちてんのう)も消極的関与を行っていた。勧修寺以外の略歴についてはp.41を参照。読者の皆さんには傍線の四人、特に勧修寺は覚えておいてほしい。
 根拠として1581年行われた馬揃(うまぞろ)は当初信長が天皇に左義長(さぎちょう)(どんど焼き)を 申し入させたのに信長が馬揃えにすり替えたこと。(『お湯殿の上の日記』※1)また82年信長は三職(さんしき)(将軍など)推任勅使の派遣を強要していた。(『日々記』)さらには朝廷は信長への戦勝祈願、公家衆の出迎えなどを強要され、信長の大義つくりに利用されていた。また本能寺の変後、吉田兼見は光秀の所にいくと光秀は銀500枚を献上しているが、その勅使(吉田)は戦勝祈願であったらしい。また京の出迎えは光秀の強要ではなく、「京頭之儀」を請け合っている。そして秀吉は朝廷の高位に容易に任命されている。それは朝廷の本能寺の変への関与情報をつかみながらも不問に付していたことに関係があると思われる。以上が主な根拠である。
 では四人の人物の関与についてそれぞれ見ていく。まずは勧修寺晴豊からである。 晴豊は『日々記』の作者である。

 本能寺の変の記事が二条城にいた誠仁(さねひと)親王関連が多く、それが最重要問題であったことを伺わせている。そしてこの大政変にいたって信長への弔意、光秀への怒りを表していない。だから事前に察知していたのではないか。また京都が大混乱の中「大さけ」を催している。(『日々記』)つまり信長の死を全く悼(いた)んでいない。もう一つ光秀重臣・斎藤利三が戦後、引き回されるのを見て「かれなと信長打談合(だんごう)(しゅう)(なり)と記していることを指して、本能寺の変からわずか半月後に光秀家中の謀議の場面を晴豊がこう書くのは不適当で、晴豊が計画を承知していたに違いない。

 次は太政大臣・近衛前久(さきひさ)である。  それは、本能寺の変後、嵯峨(さが)に隠れた前久が討手に追われ、山崎の戦いの7日後になっても前久成敗が触れられ、『日々記』にも「近衛殿今度非挙事外他」(近衛殿今度挙げないこと事の外だ。p.34参照)とあり、晴豊は前久の関与を知っていた事を挙げている。また本能寺の変当日、光秀軍は二条城攻撃の際に近衛邸から攻撃をしたこと、(『信長公記(しんちょうこうき)』)信長の甲州征伐に随行したが信長から罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせられた事(『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』)などを挙げている。前久は信長から知行を与えられていたが厚遇されたからといって翻意を抱かないとは限らない。足利義昭、荒木村重(あらきむらしげ)、明智光秀は厚遇されても謀反を起こした、という例を挙げている。  そして近衛前久について「疑惑は確定的」と論じている。
 次に吉田兼見(かねみ)である。(この時は「兼和」といった)

 吉田兼見は『兼見卿記(かねみきょうき)』という日記を残している。立花氏は「兼見の行動は極めて不可解である」としながらも以下の根拠で、信長暗殺に関与していたとみる。  本能寺の変前日に他の公家衆が残らず本能寺に出かけたが、兼見は出かけなかった。それを立花氏は、兼見は謀反を知っていて信長が翌日討たれることを「予知して信長に参礼することが憚られた」と採る。そして兼見は本能寺の変後、光秀に密着して行動している。しかし兼見は1570年頃から信長と親しかった。その兼見が信長殺しに荷担したのは、1582年の4月17日頃だとしている。この根拠として『兼見卿記』の記述がにわかに簡略化した事を挙げている。

 この時期、近衛前久と織田信長は甲州征伐に出ており、前久の帰ってきた日は不明であるが(16日までいない)、信長の帰ってきた日は21日である。立花氏は

 「この時期はまた、信長打倒計画に深く関わっていた前久が甲州から帰洛した頃であった。(中略、17日〜20日の間に)前久・兼見の間での計画に関する密談はこの頃に始められた可能性が十分ある。前久・兼見は信長打倒計画の中心的推進者であったとみてよい」

 と解釈している。

 最後に誠仁親王と本能寺の変の関わりについてである。誠仁親王は正親町天皇の実子で、皇位継承者と言われていた。その一方、親王は勧修寺晴豊(先ほど出てきた関与者)の義理の弟(親王妃の晴子は晴豊の妹)なので、本能寺の変をしらなかったとは思えない(これは勧修寺が事件に関与した事を前提にしている)。そして本能寺の変後、親王は光秀と一体化していた(勅使派遣を実現させたのは親王)。これより前、信長は朝廷に、左大臣、三職(関白、太政大臣、征夷大将軍)推任をさせており、これに親王は反対していた。つまり親王は信長の妨害者であったらしい。

 誠仁親王が「信長のいいなりになっていた」というという根拠(朝尾直弘)が「親王元服費用調達」、「信長からの二条城献上と親王の移転」の二点しかないことを挙げて批判している。

 この後、事態を鎮めた秀吉は、ことある事に朝廷を脅迫して、自分の正当性を確保した。光秀の負けは朝廷の負けであった。そして親王は秀吉のもとで天皇になれなかず、不審死する。(『お湯殿上日記』『多聞院(たもんいん)日記』)

 そして立花氏は、6月1日(本能寺の変前日)に来ていた公家の行動の解明を今後の課題として、結びとしている。