2、桑田忠親氏の怨恨説

 

 桑田氏の著書「明智光秀」によれば、明智光秀の謀反の動機は、「武道の面目をたてるため」とされている。また、同書には野望説など他説についても言及されており、その内容について先に述べておきたい。桑田氏は、まずそれら他説にたいして批判を加え、その上で「武道の面目云々」ということを、やや消去法的な論法で説明しているからである。
 まず野望説(前述した)についてだが、大村由己の『惟任退治記』などの同時代の史料に、「光秀はもともと逆心を持っていた」などとあるのは、光秀を野心家扱いし、相対的に秀吉の評価を高めるための宣伝である、としている。他にも『老人雑話』に「光秀は亀山を周山と呼んでいた」とあるのを、「周山は昔からある亀山の雅称」と説明するなど、さまざまな史料に対して検証を行っている(『甲陽軍鑑』の武田内通説など)。

 また、戦国時代の人間だからといって誰もが天下取りの野望を持っていたわけではない、信長や信玄ならいざしらず、明智光秀ごときが常に天下取りのチャンスをうかがっていたとは思えない、と論じている。

 次に、いわゆる怨恨説について。同書では『総見記』『太閤記』にある光秀が母を殺された話や、家康の接待役を取り上げられた話などに批判を加えている。だが一方で、『祖父物語』の、光秀が「骨折った甲斐があった」と言って信長に頭を欄干に打ちつけられたという話や、「義残後覚」の、酒宴で信長が光秀に槍を突きつけた話を「フロイス『日本史』の記述から見れば、ありうることだ」としている。

 このフロイス『日本史』の記述というのは、『日本史』第五十六章にあるものなのだが、これについては「六、各説の整理」で引用しているからp.44を参照。簡単に言えば「信長と光秀が密室において話していたが、信長が怒って光秀を足蹴にした」というものである。

桑田氏は、この記述を重視し、これら俗書に書かれているエピソードについて、「『日本史』の記述からすればそういうことがあってもおかしくないので、俗書に書かれているからと言って全てを否定するのは行き過ぎ」としている。

 次に、先行き不安説である。桑田氏は、『明智軍記(あけちぐんき)』の国替えの記事を史実として考え、「光秀は自分の前途に不安を抱いていた」としている(ちなみに氏は、『明智軍記』について、「光秀贔屓の創作もあるが、他書には見られない一面の真実を伝えた記事もある」と、意味不明のコメントをしている。他書にない記述だったら、普通は史実ではないと判断するものだと思うが)。毛利との戦いに敗れれば、自分の住む所がなくなってしまう、こうなったら信長を殺すしかない、というわけである。
 武道の面目をたてるため、という説については『日本史』の記述に見られるように、肉体的に、あるいは長宗我部の一件や荒木村重一族の助命嘆願を無視された一件のように、精神的に侮辱を加えられ、面目をつぶされた光秀は、その屈辱をそそぎ、面目を立て直すために信長を殺した、という説である。

 氏はこの説を次のように説明している。

 「つまらないことにこだわるな、面子などどうでも良かろう、というさばけた考えもあるだろうが、これは言い換えると人間としての存在価値であり、自我の主張であり、独立した人権の提唱である。人権を無視されたのでは、人間たるもの黙ってはいられない。黙って屈辱に堪える人間もいるだろうが、そんなのは金さえ儲かればいいといった、奴隷的人間である。光秀は、教養のあるインテリ武将だった。面目を踏みにじられて、いつまでも踏みにじった人間に頭を上げられないような、気概のないピエロではなかった。足蹴にされても、知行を増やしてもらえれば、それで我慢するといった腑抜けではなかった。だから、光秀は武道の面目上、主君信長といえども、これを打倒し息の根を止め、屈辱をそそぎ、鬱憤を晴らした、と言えなくもないのである。」

 以上が桑田氏が唱える怨恨説の内容である。